2020年振り返り(14,518文字)

今年もあと1日で終わる。今年は本当に大変な一年だった。毎年恒例となったこの振り返り。毎年書くのが楽しみなのだが、今年はちょっと下半期が重すぎて書き始めるのが少し億劫だった。

いつもは北海道の実家で書くのだが、今年はコロナで帰省が難しくなってしまったので、おそらく一年で一番長く過ごしたであろう自宅の勉強机から。キーボードは4万円の最高級キーボードのHHKBでお送りします。

例のごとく私的な内容を含むため、本編は有料とさせて頂きます。ちなみに去年は30人くらいの人に読んでもらえてかなり嬉しかった。笑

まず1月。正直あまり記憶がない。2019年の12月にベンチャーに転職して、3月くらいまでは記憶を無くすくらいがむしゃらに働いていたと思う。ただ、当時の日記をみていると、転職してわからないことしかない中で、毎日めちゃくちゃ勉強して1月末にはすでに実務で必要なスキルの輪郭を掴み始めていたよう。我ながら吸収速くてえらい。仕事の捉え方や視座も一段上がった感覚があって、結構良いnoteを書いてた。

コンサルタントはクライアントにとって価値のある提案をしてナンボ。そのためにはまず自分の提案への執着を手放し、はからいを捨て、クライアントのありのままの声に耳を澄ませることが大事。これぞ仏教流コンサルティング

仕事以外では、PORTOでお医者さんのありありさんとコラボし仏教x医療ナイトをやったりした。これが結構楽しくて、初対面の人も含めてとても真剣に話を聞いてくれた。僕は人に何かを伝える時、何を言うかより誰が言うかが大事だと考える派で、すぐに坊さんにならずビジネスパーソンとして頑張ってる理由の一つもそのためなんだけど、前よりも初対面の人に対して言葉が届きやすくなった気がして、ささやかながら良い経験になった。

あとはよんなな会の脇さんのご講演を聴いたのも記憶に残っている。普段交流会や飲み会でしか会わないので、公の場で話を聴くのが新鮮だった。印象に残っているのが、脇さんの活動の原動力についての話。

「目の前の困ってる人をただ救いたい、その一心で自分ができることをやってきた。その結果として今大きな活動体になっているが、原点はその気持ち。」

この言葉がすごく響いて、その日から、目の前の困ってる人がいた時、もし自分ができることがあれば迷わずやる、ということを心がけるようになった。その意識がけがあってか、今年は人のお悩み相談(特に(なぜか)恋愛相談)に乗る機会がとても多かった。PORTOに一回だけ遊びに来てくれた人が「秦さんお坊さんって言ってましたよね。ちょっと悩みを聞いて欲しくて。」と突然メッセージをくれて話を聴くなんてこともあった。

僕にとって最も大きい喜びの一つは、人に頼られて、自分ができることをやって、その結果その人が一歩でも前に進めるようになることだ、と気づけたのもこの頃。これが11月から講座に通い始めたコーチングにも繋がっていく。

2月も引き続き仕事一色の日々だったが、一大イベントはなんと言っても大学時代からの親友の愛莉さんがHakaliに加入したこと。愛莉さんは前職を辞めてから次の会社選びをじっくりやっていて、僕も頻繁に連絡をとってこんな会社はどう?とか提案したりしていたんだけど、まさか最終的に自分の会社に入ってくれるとは思いもしなかった。笑 本当にベストなタイミングで社内でポジションができ、愛莉さんがそこにピッタリ適合する人材だったので、打診をしてからはトントン拍子で1週間くらいで入社が決まった。社長、取締役、取締役、社長夫人(経理)、僕、愛莉さん という人員構成に笑った。でもめちゃくちゃ嬉しかったしワクワクした。

プライベートでは、彼女と四万温泉に行った。四万温泉はまじで最高だった。この頃、仕事のしすぎか肩が凝ってじっとしていてもジンジン痛むような状態が続いていたのだけど、四万温泉のすごい歴史のある湯に浸かって風呂のふちに頭を乗せて湯に身を委ねて浮いていたら、翌日完全に凝りが取れた。これが湯治ってやつか!と思った。また酷く疲れることがあったら行きたいな。

3月も引き続き仕事。前職に営業アポ行ったのが個人的には思い出深い。役員なのにフラットに話しかけてくれる方がいて、僕が辞める時に次の会社のこととか聞いてくれて「じゃあ一緒に仕事できるかもしれないから落ち着いたら会いに来てよ。」と言ってくれていた。もしかしたら社交辞令だったのかもしれないが、馬鹿正直にアポ取らせてもらって訪問。久しぶりに踏み込む赤坂Bizタワー緊張したなあ。懐かしさより緊張が勝った。社長と意気投合してくれて、人を紹介してくれたりビジネスの取り組み検討はしてもらえて嬉しかった。

ガチベンチャーは黙って待ってても仕事は降ってこないので、上で書いた愛莉さんの入社もそうだけど、前職に営業しに行ったり、会社の成長のために自分の持てる全てを総動員して闘う総合格闘技感が肌に合って毎日ワクワク楽しく仕事ができている。

4月。この頃からコロナが本格化し始めて、仕事もプライベートもオンライン化して行った。仕事では、僕のコンサルキャリアにおいて間違いなくターニングポイントとなる、案件が始まった。Hakaliに入社して以来初めて、社長がほとんど入らず僕が一人で全てをこなすという案件で、社長からは修行してきて!ということで送り出された。某広告代理店からの依頼で、媒体社の認定パートナー制度で、優れた分析をした代理店に対して与えられる認定バッヂの取得を狙っているクライアントが、どうしても優れた分析が出せず苦戦しているので分析手伝ってくれというもの。最初、クライアントには「一緒に頑張ろうね。うん^^」とひよこ扱いされ、実際SQLとBigQueryを勉強するところから始めたわけだけど、自分が良いアウトプットを出さなければ終わる!という状況におかれると、腹が決まるというか、余計なことを考えずにクライアントへの貢献だけに集中できるようになって、すごくいい精神状態で仕事に臨むことができた。

結果、いくつか意義のある分析アウトプットが出せて、無事認定バッヂ取得。プレスリリースも3本くらい出すことができ、100点と言って良い成果を出すことができた。
クライアントの熱量も高くて、僕自身本当にたくさんのことを学ばせてもらったし、何よりチームの一員のように迎え入れてもらって一緒に目標達成に向かっていくのが本当に楽しかった。元々2ヶ月の契約のはずが、バッヂ取得後も継続発注を頂き、結局12月までご支援させていただいた。最後はOKRの策定とか来期のプロダクト戦略まで関わらせてもらって本当にありがたい経験となった。僕一人でもやれるぞ!という自信がついた。この自信は将来の掛け替えのない財産になると思う。

それからこの時期、個人的にずっと書いてみたかった「xxだった僕がxヶ月でxxできるようになるまで」というような学習エントリを書いた。

これがなかなかの反響で、Pythonコミュニティのイベント登壇に繋がったり、この記事経由でインターン生の応募が数件きたりした。

プライベートでは、昔からずーーーっと好きだったお坊さんのフリーペーパー「フリースタイルな僧侶たち」に関わらせてもらうことになった。新しく編集長になった稲田ズイキさんに誘ってもらって、新メンバーに。これは今年嬉しかったことトップ5に入る出来事だった。

4月に入ってからコロナが本格化し6月?7月?くらいまではほとんど外に出ることもなくなり、家での遊びが増えたなあ。よく覚えているのは、仲いい奴らで始めたオンライン同時映画視聴会という企画。みんなで同じタイミングで同じ映画を観始めて、終わったらZOOMをつないで感想を言い合うという会。これがなかなか盛り上がる。

ここで重めの恋愛映画を立て続けにみたことにより、自分の恋愛観が崩壊した。これまでは、付き合っている人がいたら、彼女以外の女性は骸骨だと思ってみていたというか、それは確実に言い過ぎなんだけど、性的感情を持ち得ないようにゴリゴリの理性で半ば脳内催眠をかけて他の人に目移りしないようにしていた。それが男として、僧侶として正しいと思っていたし、自分の矜恃でもあった。それがゆらがされたのは、確実に東出くんと唐田さんのニュースで話題になった「寝ても覚めても」という映画。この映画は本当に凄かった。あぁ理性じゃなくどうしても逆らい難い本能に突き動かされて燃える恋愛かっけえなと思ったしそれでこそ人間なんじゃないかとまじで思った。唐田さんの名台詞「もう戻らへん。全部捨てて。」はしばらくモノマネした。

それからは下手に理性で感情を押さえ付けることをせず、オープンマインドで過ごすようになった。結婚してから理性が崩壊して浮気してしまうよりも、付き合ってる間にオープンマインドで過ごしてそれでも好きだなって思えたら結婚する、って方がよっぽどリスクが少ないように思えたしむしろ誠実な態度なんじゃないか?と正当化した。まあ結局オープンマインドで過ごしたってだけで実際何も変わらなかったけど。笑

あ、あと会社関連で大事なニュースは、自社プロダクト「Awarefy」がリリースされた。プレスリリースはものすごく反響があって、週間ランキングでしばらく上位に入っていたくらい。Facebookの友達からもたくさんコメントもらえてめちゃくちゃ嬉しかったなあ。アプリは今時点で3万ダウンロードを突破したが、まだまだこれから。引き続き。

何やかんやコロナ禍でも楽しく過ごしてたんだなあと振り返ってしみじみ。これはコロナ関連コンテンツで一番好きだったやつ。最後裏ドラのってドヤ顔してるのがポイント。

半年を振り返り終わったところで4000文字。上半期はそんなに何もなかったなーと思ってたのに、振り返ってみると結構色々あったなあ。あと虹プロもハマった。真実誠実謙虚。

さて8月。ここから重いなあ〜〜〜。

まず軽いところからいくと、8月は色々とチャレンジしてみた月だった。一つはyahoo!の安宅さんのギグパートナーに申し込んだこと。昔早稲田の大隈塾の講義で登壇された茂木健一郎さんが話していたことが結構印象に残っていて、

何事もトップオブトップのレベルを知っておくことが重要で、まずそこを知ることで現実と最高状態とのギャップを測ることができ、そのギャップの実感がどこまでも自分を内省的にさせ、現状満足せずに上を目指し続けることができるのだ。

というような話で、データサイエンティストの山を登るのだとしたら圧倒的に安宅さん。安宅さんと一緒に仕事ができる副業募集とあれば、申し込まない手はない。というわけで、相当に気合を入れてエントリー資料を作り込んだ。200倍以上の倍率だったそうで、結果はダメだったが、また募集があれば申し込み続けたいと思う。それからACCヤングコンペに参加してみたりもした。博報堂でコピーライターになった後輩に誘ってもらって3人チームで出場することになった。代理店時代はデジタル広告の営業だったので、クリエイティブの仕事をしている人とは縁遠かったのだが、広告賞への憧れはずっとあって、良い機会だと思って参加してみることにした。優秀な後輩たちとクリエイティブの脳みそを使う良い経験になった。こちらも結構頑張ったが結果はついてこなかった。でもコンペのやり方はわかったしまた余裕ができて機会があれば参加してみたいと思う。あとは、熱海にワーケーションに行ったりした。地元の人たちとの交流がたくさんできて充実してたなあ。SNSだけ繋がっていたお寺の方がテラワークなるお寺でテレワークする仕組みを作っていて、そこに遊びに行ったりもした。

そして8月最大のイベントは、1年半付き合っていた彼女と別れたこと。大好きだったけど別れる決断をして、正直マジで辛かった。嫌いになって別れる方がよっぽど楽だと思った。別れた原因は、方向性の違い。これに尽きる。先のことはできるだけ決めず選択肢を多く持っておいて、その時々に最善の選択をとって生きていきたい僕と、先のことはきっちり決めて不安要素をできるだけ無くして自分のキャリアを着実に歩んでいきたい彼女。夜な夜な腹を割って話し合いを重ねたけど、どれだけ話しても一向に平行線だった。これだけあらゆる可能性を検討して議論し切ったので、かえって諦めはつけることができた。こんだけ話しても擦り合わないのだから仕方ないね。お互いの歩みたい人生を歩もうぜ!と最後は笑顔で別れた。

このとき初めて痛感したのは「ああ、人生って僕だけのものじゃないんだな」ということ。これまでは自分が生きたいように生きればいいと思っていたのだけど、どうやらそれだけではダメらしい。何かを得るためには何かを捨てなければならない。誰かと生きていくというのはそういうことなんだと思う。それは自分の両親に対してもそうで、遅まきながらやっとそういうことに気付けたというのが今年の大きな学びの一つ。僕の人生でもあるけど、子の人生は親の人生でもあるのだ。関わり合う人たちの人生を考え折衝しながら、その中で最善だと思える選択をとって行けたらいいなと思った。

彼女との関係においては、惜しいなという気持ちがある。正直なところ、マンネリはあった。そのほか思うところもあって、別れるかもという予感はしていた。しかしいざ別れ話になると、めちゃくちゃ大好きだという気持ちが湧き上がってきた。彼女がやりたいことを真剣に話してもらえばもらうほど、ますます魅力的に感じていった。でも仕方ない。お互い自分がまだ何者でもない中で、自分の人生よりも相手と一緒にいることを優先できなかったという話。僕が理想的だなと思うパートナーシップの形は、お互い自分の人生はあるけども、それ以上にその相手と一緒にいたいと思えて、一緒にいるために、お互いが歩み寄って、その中で最善の人生の選択をしていくこと。そこまでの関係にはなれなかった。まだまだ未熟である。

別れ際でミスったなあと思ったのは、別れて少し経ったあと、彼女の荷物を受け渡すのに自分の家まできてもらったこと。大手町の駅ホームとかで渡せばよかったものを、「最後に兆徳(地元の行きつけの中華)行こうぜ。」とかこつけて千駄木まできてもらった。兆徳でいつもの揚げ餃子とチャーハン、黒胡椒と山椒の唐揚げを頼んでビールで乾杯。クァー!といつも通り至福の表情を浮かべる彼女をみて、目眩がした。これはミスったと思った。せっかく前向きだったのに、情が沸いてしまうではないか!!!

家に帰ってお茶を煎れて、くつろいだ。そのまま終電が過ぎればいいのにと思ったが、まだ22時だった。一瞬油断をして沈黙が流れた瞬間、「そろそろかな。」と彼女が一言。終わったと思った。これで本当に全て終わってしまう。そう思うと泣けてきた。彼女の前では泣いてなかったけど流石に耐えられんかった。家から駅までの道がこれほど短いと感じたことはない。亀ほどトロく歩いたり、靴紐を結び直したりしてみた。待ってくれた。公園のベンチで座って、少し話をした。「本当に感謝してるよ。」なんて一番聞きたくない言葉だった。終わりを感じてしまうから。公園の電灯に照らされた彼女の横顔が本当にきれいだった。涙に濡れた長いまつげと大きな目に光が反射し、キラキラと輝いていた。こんなに可憐な生き物にはもう出会えないだろうなと思った。

別れた後の記憶はあまりないが、たくさんの友達に支えてもらったと思う。Awarefyに「友達の優しさに触れた9月」と書いてあった。笑 優しさとは何だろうか。僕が思うに優しさとは、相手を大切に想う気持ちそのものだと思う。優しい、という形容詞には、xxしてくれるから、という理由がセットになることが多いが、それはあくまで相手を大切に想う気持ちが形となって表れたものだ。必ずしも何かしてあげなくたって、優しさは届けられる。そう気づかされたのが失恋直後の日々。少々込み入った別れ方をしてしまったので、聞いても何と声をかけたら良いのかわからなくなってしまうようで、誰に話しても皆「ううううう…」と苦悶するような反応だった。ただ名前を呼んでくれる人、とりあえず肩をぽんぽんしてくれる人、お疲れ!と言ってくれる人。上手い言葉をかけてくれた人は一人もいなかった。でも僕にとってはそれで十分だった。きれいな言葉はなくとも、僕を元気付けようという気持ちは十二分に伝わってきて、それだけで本当にありがたかった。言葉で飾らない無加工の優しさに触れて、少しだけ世界が柔らかくなったように感じる。

9月の誕生日は友達とキャンプに。奥秩父で穏やかに過ごした。26歳になっての変化は、ハゲてきたこと。

上の記事でも書いたが、自分の体で思い通りにいかない部分が出てきて初めて「ああ、若さって永遠じゃないんだな。」と仏教の根本の思想である「生老病死」を肌で体感した。「自分の将来は明るい。まだまだ時間もあるし何でもできるぞ!」というスタンスから、「老いてきてるぞ。先に無限に時間があるわけじゃないぞ。」というスタンスにシフトしたのは大きな進歩だと思う。

それから、今年の誕生日は珍しく高校からの腐れ縁の大石にも祝ってもらえた。シェアハウスのカグラボの人たちは、メンバーの誕生日にいつも全力で、ほぼ毎月のペースで誰かしらの誕生日会をやるのだが、こと僕の誕生日に限っては僕がだいたい彼女とどっかに行ってるのでしっかりと祝われたことがなかった。今年の誕生日は僕が彼女と別れたからなのか、大石が高校の同級生を集めてサプライズビクドン誕生会を開いてくれた。まあ段取りは悪く(笑)、ビグドンが混んでて入れず、結局近くの中華屋で爆食いしてシメに歌舞伎町二郎にいくという謎の会になった。歌舞伎町二郎を食った後、最後まで残った3人で腹キツくて死にそうになっててマジでバカだった。笑顔で手を振りながらチャリで帰る大石と大吉をみて、こいつらかわいいなあと思った。これが僕がみた大石の最後の姿になるなんて思うわけがなかった。

ビクドン会から数日後、大石たちが事故ったという連絡がきた。最悪の事態にはならないだろうと信じていたが、夕方大石の訃報が届いた。全く理解できなかった。カグラボ民のふうことたまこと合流して、代々木公園で寝そべって空を眺めた。よくわからなくて、涙も出なかった。お腹がすいたのでパスタを食べて、適当に恋話などをして解散した。帰り道、ニュースをみた札南の同級生からこれほんと?とLINEが入っていた。何人かと電話して、起きたことを説明していたら、涙が出てきた。人に説明するためにはいやでも事実を自分の中に入れて客観的に話さなきゃいけない。それで自分自身も受け入れなきゃいけなくなったということだと思う。

翌日、火葬に立ち会うため岩手に行くことになった。初めはあまりに突然のことだったので、事故があった岩手で遺族のみで火葬をするとのことだったが、中学の頃の社会の先生でもある大石のお母さんに連絡をして、どうにか行かせてもらえるようにお願いした。カグラボにあった大石が大切にしていた料理道具や、大石の誕生日会で撮った友達との大量のツーショットチェキなどを持って新幹線に飛び乗った。事故の車に同乗していた彩乃、先に駆けつけていた千葉ちゃんと合流した瞬間、肩を抱き合って泣いた。この二人には本当に支えられた。特に事故の後すぐは、大石と一番時間を過ごしていたであろう彩乃が気丈に振る舞ってくれてとても支えられた。
飲むか!と宿の近くの居酒屋に言って、ゲラゲラ笑っては泣いて、また笑っては泣いて。、と哀しくも愛おしい時間だった。店員さんからしたらおかしな集団だったと思う。

翌日、大石と対面した。いつものように寝てるような穏やかな顔だった。最のお別れをして、火葬が始まった。火葬の最中、カマキリが現れたことは、今思っても不思議な出来事だった。後日、以下の文章にして大石と親しかった人にはシェアした。

慎治さんがカマキリになったかもしれない話
慎治さんの火葬中に起きた出来事のお話です。とても印象に残る出来事だったので、シェアさせてください。
慎治さんが小さかった頃のこと、祖父が亡くなり、慎治さんが今眠っているのと同じひばりヶ丘の墓地で法要が行われたそうです。当時北海道に住んでいた慎治さんは生き物が大好きな少年だったそうで、「東京に行ったらカマキリに会えるかな??」と北海道には生息しないカマキリに会えるかもしれない滅多にない機会に胸を踊らせていたそうです。
法要が執り行われ、お墓に納骨をし終え、皆で帰ろうとした時のこと、なんと本当にカマキリが慎治の目の前に現れたのだそうです。ずっと会いたかったカマキリが出てきて、慎治さんは大はしゃぎ。
その時ご家族は「きっとおじいちゃんが慎治のためにカマキリになって出てきてくれたんだね。」と話し、それからカマキリを特別な生き物として思うようになったそうです。
ーーー
そして今回、火葬が始まって1時間半くらいが経った時のことだったでしょうか、火葬が終わるのを待合室で待ちながら、ご家族と私たちでお話をしていた時のことでした。ふと後ろのテーブルに目を遣ると、机の角っこに、茶色い小さなカマキリが立っていたのです。私たちはお祖父さんのお話を知らなかったので、「おお、カマキリだ。」というくらいの反応だったのですが、ご家族はそれをみた瞬間に慎治さんだと確信したようで「慎治だ。慎治が出てきてくれた。」と泣き崩れられていました。
そのカマキリはテーブルからポトリと落ち、キョロキョロとあたりを見渡しながら歩き始めました。はじめは誰もいない方向に歩いていたのですが、お母さんが「慎治、こっちだよ。」と呼びかけると、一瞬ピタリと静止したあと、お母さんの方に向き直り、ゆっくりとお母さんの手の中へと歩いて行きました。そしてお母さんが両手で優しく掬い上げ、皆でその手を優しく包みました。私たちは、よくわからないけれど、とっても不思議なことが起きていると思いました。
火葬は岩手の紫波中央という場所で行われたのですが、見渡す限り田んぼが広がるとっても気持ちの良い場所でした。慎治カマキリもここなら楽しく生きていけそうだね、と田んぼで放してあげることにしたのですが、何度やっても放した手を伝って、体の方へとよじ登って来るのです。まるで「まだ別れたくないよ!」と言っているかのようでした。それを見ていたら、本当に慎治さんにように思えて涙が出てきました。何度か別れを惜しんだあと、最後はお父さんの手から放して、またね、とお別れをしてきました。
あまりに不思議な出来事だったので、私たちも半信半疑の気持ちでいたのですが、なんでしょう。その慎治カマキリを手にとったときに、「ああ、大石くんはいるんだなあ。」と、ちょっと安心した気持ちになったんです。きっと、ここに来たら、また会えるんだと。
ーーー
火葬を終えて東京に戻ってから、この話を慎治さんの友人たちに共有しているのですが、驚くことに、各地でたくさんのカマキリ目撃情報が上がっています。
きっと、みんなのところに順番に回っているんだと思います。そのうち来ると思うので、皆さんもカマキリを見つけた時は、慎治さんだと思って優しくしてあげてくださいね。
冬の間は寒いから、どこか暖かいところを見つけて寝ちゃってるかもしれませんが。

火葬を終えて盛岡からの帰りの新幹線。僕ら3人の気持ちはすでに前をむいていた。散々泣いたからというのもあるが、カグラボで初七日の法要をやろうと決めていたから。あの大石が、お別れの場もなくみんなの元からいなくなってしまうなんてあり得なかった。あれほどたくさんの人と濃ゆいコテコテの関係を築いていたやつはいない。そんなやつが急にいなくなったら、立ち直れなくなってしまう人がたくさんいると思った。そこでご遺族にお願いして、大石くんの一部をカグラボに連れて帰らせてもらっい、初七日のタイミングでお別れ会を開かせてもらうことになった。僕がお坊さんとしてしっかりお参りをするという条件付きだった。

カグラボに帰ってからは、みんなに起きたことを説明したり、会の準備をしたり、お別れ会の周知をしたり、初七日までは仕事も1週間休ませてもらって大石のためだけに時間を使った。正直やることがあって良かった。大石のそばにいれる大義名分がなければ本当にしんどかったと思う。なんでもいいから、そばに居て離れたくなかった。僕は引っ越してからカグラボにいく頻度はそんなに多くなくて、正直みんなとの関係も少し薄れていたのだけど、みんなでお別れ会を作り上げていく中で、本当に素敵ないいやつが集まっているんだなあと改めて思った。各人が強みを生かして自然に役割分担をして、会を作り上げていった。大石はこういう場をじっくりと時間をかけて育んでいたんだなあと思うと、おい何でいなくなっちゃうのよー。と思うしかなかった。

大石にはよく「俺が死んだら葬式秦頼むな!」と言われていた。OK!と軽く返事をしていたのだけど、まさかこんなに早くその時が来るなんて思わなかったよ。準備できてないわ!自分一人で葬儀を執り行うのは初めてだった。本当に務まるのか不安だったけど、父にも練習に付き合ってもらったりして何とかやり遂げることができた。まあ、読経中に彩乃がお焼香を上げながら嗚咽しているのを横目で見て堪えきれず、途中からは泣きながらやるしかなかったのだけど。あとでみんなに話を聞いたら、ゆっくりと向き合える時間になって良かったと言ってもらえた。手応えというと少しおかしいけど、お坊さんとして、葬儀をする意義を身を以て体感することができた。北海道のお寺では父が大石家のために法要を執り行ってくれて、北海道と東京どっちもで法要をすることができて、僕としては本当にありがたく嬉しかった。

お別れ会には延べで250人近くの人が訪れた。大石とはFacebookの共通の友達が455人もいるので共有の懐かしい友人ともたくさん再会した。みんなと大石の話をしていて驚いたのは、一人一人の中に、僕が知ってる大石とは全然違う大石の姿があるということ。聞けば聞くほどに僕が知らなかったあいつの姿が見えてきて、そのどれもが胸を打たれる話ばかりで。あいつの底知れぬ懐の深さに素直に心から尊敬の念を覚えた。

僕にとっての大石は、友達である以上にライバルだった。僕は一年浪人したから大石より一年後に早稲田に入ったのだが、彼はすでにたくさんの友達やコミュニティを作っていて、僕はそこに迎え入れてもらう形で大学生活を始めることができた。僕も大石も意識高い大学生だったので、社会的な活動や企業でのインターンのこともたくさん教えてもらった。熱く語ることも多かったし、喧嘩もよくした。大石に追いつけ追い越せで学生生活を頑張ってたきたところがある。

その中でもあいつにどうしても勝てなかったのが、優しさの瞬発力だ。誰かが困ったり苦しんでるとき、脊椎反射で言葉をかけたり行動ができる、その姿が本当にカッコ良かった。し、少し嫉妬してた。人に大事なことを伝えられて、打算とか自分のことよりまず人のためを思える、マジでオンリーワンの男だった。

正直大石とは合わないところも多かったし、ちょっとムカついてた。僕が先に卒業してからもう2年くらいまだ学生をやってて、何やってんだよ、早く卒業してこっちこいよと思ってた。カグラボにあまり行かなかったのは、そういう大石に会いたくなかったというのもある。今年やっと卒業して、4月から社会人になってからは、またよくお互いの話をするようになって、頻繁に会って語る機会も増えていた。直近も47都道府県に別荘を作る企画を始めて、これは長期的なプロジェクトになるな、なんて話してた。こんな感じでジジイになっても遊んでんだろうなーと思ってたんだけど。。。3ヶ月経って、今こうして振り返ってみても、嘘じゃん??と思ったりする。あいつが死ぬなんてことがあるのかな。

事故のあとすぐの頃は、初七日まで走りきればきっとこの気持ちにも区切りをつけられて、これまで通り仕事に打ち込めるようになるはず、と思っていたが、全くもって無理だった。意味づけも何も不可能。今もやり場のない気持ちを抱えながら過ごしている。

いやー。やっぱりあいつのこれからの人生を思うと、悔しくて仕方がない。絶対にすごい人生になってたと思う。僕が密かに夢想してたのは、お互いに何かの領域で突出した成果を出して、有名になって、そんな二人が旧友としてメディアに取り上げられて偉そうに対談すること。昔は俺たちこんなバカな学生だったんですよー、なんて話したかった。なのになんだよ。まだ何も成し遂げられてないじゃないか。どうすんだよ。これから自分だけの人生を生きられなくなったじゃないか。俺ばっかりガンガン生きたらずるい感じになったじゃん。全く。これからは、大石の分の人生の続きも生きられたらなと思っているよ。

この出来事を通して、今まで自分が信じてきたこと、思考、価値観、全てが覆っていった感覚がある。端っこのオセロがひっくり返った結果、隣のオセロから順に全てひっくり返っていくような。

前提が変わったんだと思う。老人になるまで生きることを前提とした世界から、いつ死ぬかわからないということを前提とした世界へ。あんなに一生懸命やっていた仕事も一時的にだがどうでもよくなってしまった。流石に新しい案件のキックオフアポでクライアントの目の前で寝てしまったのには自分でも驚いたけど(本当にすみません)。。。仲間たち皆がそうなってた。こんなに辛いことに向き合わなくちゃいけない中で、それ以外のことは何をしたって虚しく感じた。

それまでの僕の仕事に対するモチベーションの大半は「個人の成長」だった。成長とは、すなわち将来への投資だ。将来やりたいことができた時に全力で取り組めるように力をつけておきたいという気持ち。その思いでガムシャラに働いてきた。でもこのことがあってから、そんな働き方が急に怖く感じるようになった。将来への投資って言ってるうちに死んでしまったら何にも残らないじゃないか。スキルや経験は、身にまとう鎧にはなるけど、血肉にはならない。もっと自分の人生に積み上がっていくようなことに時間を使いたいと思うようになった。自分の人生に積み上がるとは、今日死んでも後悔しないくらい魂を燃やせることに時間を使うということ。

その気持ちを正直に社長に伝えたら、理解してくれて、来年からは新規事業の仕事を兼務させてもらえることになった。この一年、本当に社長にはやりたいようにやらせてもらったなあ。本当に、感謝しかない。この恩は仕事で返すしかない。

かなり長くなってしまった。まだ書きたいことがあるので書く。10月の後半は、心を癒すために伊豆にワーケーションに行った。今年、コロナでしんどくなった時も、彼女と別れた時も、大石がいなくなった時も、ずっとそばにいてくれた親友がいる。その子がいなかったらマジで精神崩壊してたかもしれない。伊豆でまったり過ごして永遠と夕日を眺めたり、目の前一面に海が広がる露天風呂に入って夜風に吹かれたり、建物の屋上に上がって星を眺めたりして、心からリラックスすることができた。

今年コロナになってよかったことの一つは、ワーケーションができるようになったことだ。ワーケーションは本当に良い。そのあと逗子でもワーケーションしたのだが、ワーケーションの良さについては違う記事で熱く語った。

あと、この時、もう一つとっても大きな出来事があった。クローズドなこのnoteにすらまだ書けないようなことだけど、来年には良い出来事として書けるといいなあ。

11月、12月も瞬く間に過ぎていった。カグラボには週一くらいでまた顔を出すようになって、みんなに遊んでもらっている。特に千葉ちゃんと彩乃には本っ当に助けられた。12月、3人で慰安旅行として山梨に行った。富士急で遊んで、河口湖の湖畔のちょっといい旅館であえて露天風呂付き客室を取って、みんなでお風呂に入りながら富士山を眺めた。カグラボを知らない人はあまり理解できないかもしれないが、シェアハウスで住んでた仲間たちはそれくらい家族のような存在。千葉ちゃんがこの前「カグラボという絶対に安心して帰ることのできる場所があるから、これから大きな挑戦できると思う」と言っていた。そんな感じ。大石くん、卒業もせずに大学に7年も通って一体何やってたんだと思ったら、最高の場所を作ってたんだね。

余談。山梨の山の中にめちゃ素敵な骨董品屋さんがあって、彩乃が行ってみたいというので訪ねてみたのだが、運悪く定休日だった。ただ、軒先にお皿が並べられていて、それだけは自由に購入していいようだった。結構いいお皿がたくさんあったのだが、彩乃は青色の中華風の湯呑みとお皿をセレクト。聞くと、カグラボにも同じ柄のどんぶりがあるらしい。これで三点セット揃った!と喜んでいる姿が可愛かった。その次の日カグラボに行ったら、そのお皿に焼売が乗せられて、大石の仏壇の前にお供えしてあった。本人には何も聞かなかったけど、中華のお皿といえば焼売ということで、焼売を買って大石に食べさせてあげてたのだろう。なんだかそれをみた瞬間、大石は幸せ者だな!と思ったのだった。たったの26年の人生でこんなふうに思ってもらえる人ができるなんて、やっぱり君はすごいよ。そして彩乃も。尊い

さて、さすがにそろそろ締めようと思う。本当に大変な一年だった。だけど間違いなくこれからの人生において転機になる一年だった。今年一番の学びは、自分に期待しなくなったことかな。ハゲてきたこと、そして親友の死によって、自分の生が永遠でないことを自覚し始めた。仏教の一切皆苦の意味が始めて附に落ちた。生老病死という自分の力ではどうにもならない事実を痛感し、死というものをありありと感じて、初めてこの限りある生が輝き出す。そんな感覚がある。どう生きてやろうか。焦らず気負わず、誠実に考えていきたい。

来年に向けて、新しい種もある。
ライフワークになるかもしれないと思い切ってコーチング講座を受け始めたが、今のところ最高に楽しい。基礎が修了したので、来年からちょっとずつ実践していきたいと思っている。
あとは、札南の先輩で、北海道の大自然で行うオーダーメイドのガーデンウェディングの事業を手掛ける方に頼ってもらってデジマのお手伝いをさせてもらったり。そのほかにも来年から個人で受ける仕事がある。
それから、春から関わっているフリースタイルな僧侶たちのフリーペーパーがついに完成し、1月中頃から配布開始予定。マジで最高に面白いものができたので配るのがとても楽しみ。
会社ではマネジメントのポジションになって、普段の業務に加えてマネジメントという新しい仕事も始まった。Awarefyでも某県庁との実証実験の担当をさせてもらったり、新規事業も少しずつではあるが形が見えてきている。
あと、この前歩いていたら、心からやりたいと思えることを閃いた。11月からずっと心からやりたいと思えることを探していたけど、これだと確信に近いものを感じている。来年から少しずつ始めて行くつもり。

総じて前向き!過去最長の14,000文字超の振り返りになった。笑 

最後に来年の目標を決めて終わりにしたいところだが、なんとなく今は目標とか必要ない気がするので、一旦決めずに行こうと思う。

本当に色々会った一年だったけど、関わった全てに感謝をして、来年を迎えたいと思います。ありがとうございました。

終わり。

2019年振り返り【10,000字超】

毎年大晦日の恒例となった1年の振り返り。今年もやる。先週竹田の家で仲良しメンバーを集めて振り返り会をした。やっぱりいいね。振り返ることで自分の1年間のあゆみが改めて感じられるし、他の人の振り返りを聞いていても気づきが多い。

さて、今年はどんな一年だったか。最初の感覚としては「あまり進歩のなかった停滞した1年だった」という印象。しかし1月からよく振り返ってみると、波乱万丈阿鼻叫喚、なかなかの激動の一年になっていた。特に1−3月。そういや3月くらい、この大晦日の振り返りが楽しみだなあとか考えてた気がする。それくらい色々あった。順番に振り返っていく。あっ、ふるさと納税しなきゃ。ダッシュで書こう。

まず1月。1月が一番激動だった。昨年の後半頃から、当時付き合っていた彼女とうまくいかなくなって、クリスマスで距離を置くことを決めて、1月の半ばくらいに久しぶりに再会した。別れ話をするのかしないのかもわからなかったし、距離を置いているときはほとんど思い出しもしなかったので、あまり何も考えずに会いにいった。室内は嫌だったので上野公園で。結局、別れ話になった。お互いに一緒にいることが難しくなったというのが要因なのかな。友達に別れた理由を聞かれても説明が難しかった。一緒にいることで元気が湧いたり、成長したり、プラスに働くことはたくさんあると思う。だけどそれと同じくらい、一緒にいるからこそ生まれてしまう、マイナスな側面ー 嫉妬や怒りや不安 もある。そうしたものが、少しずつ積み重なっていって、そっちの方が大きくなってしまった。それで疲弊した。お互いのことは嫌いになってないけど、無理に恋人の関係でいる必要ないかもね。友達という関係でいた方が、お互いにいい関係でいられるかもね。そんなような話をして、別れることにした。僕はその当時、かなり疲れて感情が薄れていたので、別れることになっても悲しまないだろうなと思っていたのだけど、結局号泣した。彼女に会う前、「夕方くらいには終わるだろうから終わったら本を読もう」とリュックに3冊くらい本を積んでいたけど、肩にずっしりと重い荷物にしかならなかった。とにかく歩きたくなって、上野から歩いて家まで帰ったことをよく覚えている。
それからというもの、心にぽっかりと穴の空いたような気分だった。胸がスースーして仕方なかった。別れて時間がたくさんできるから、本を読んだり自己投資しよう!と意気込んだが、読めども読めど1文字たりとも文字が頭に入ってこない。生活のあらゆる部分に彼女が入り込んでいたことを知った。服、カバン、音楽、あらゆるものから思い出が想起される。街に出れば、駅、公園、カフェ、ラーメン屋にまで奴が現れる。ああ、この家系ラーメン、一緒に食べたなあ。卵はいつも最後に、だったな。
これまでの生活がガラリと変わると、いつもの何気ない風景が輝き出す。あらゆるものが目新しく新鮮なように感じられ、世界がエモさを含んだセピアな輝きに満ち、何でもないのにふと涙が流れそうになることが多々あった。このときは、友達とラインをしたり朝活をしたり、いろんな人に支えられた。そのおかげで、徐々に立ち直っていった。

さて、今年の目標は「決めすぎないこと」だった。去年のブログの最後にもそう決意している。世界も自分も不変ではなくコロコロと移り変わっていくのだから、あるタイミングのある世界の中で決めた目標を厳密に守っていくことは、むしろ自分を縛り付ける足かせになってしまう。目標を持つことはいいことだけど、決めすぎない。その時々で自分の心の声に耳を澄ませ、柔軟に、流れる水のように過ごしていく。それが今年の目標だった。
そして2019年早々、この目標が活きる時がきた。

「自己研鑽に励もう!」これが彼女と別れた後すぐの目標だったわけだが、どうにもそれどころではないほどの喪失感があった。全然勉強できない。なんも集中できない。だめだ、この胸に空いた穴をまず埋めなければならない。埋めなければ死んでしまう。その思いで、Pairsを始めた。心の声に耳を澄ませたのだ。とにかく、何かせずにはいられなかった。
とはいっても、所詮はマッチングアプリ。合コンですら絶対に行きたくない性格だ。マッチングアプリで本当にいい人が見つかるなんて思っていなかった。気の紛らわせだ。でもこういうアプリは楽しい。夢が広がる。ひとこと欄には、「一緒に朝活してくれる人募集中」と書いた。これも戦略である。朝でも爽やかに出会えるような素敵な女性が見てくれたらいいなと思った。そしてアプリを始めて1週間、僕は自分史上最高のブランチを過ごすことになる。
プロフィールには、デザイナー、海外大卒、都内メーカー勤務、などといった文字が並んでいて、恋人探しというより、意識高いセンサーが反応して、メッセージを送った。経歴が面白そう。普通に話してみたい。そんな感じ。写真がめちゃ可愛かったので、僕なんかに振り向いてくれないと思ったけど、なぜかマッチングできて、表参道でブランチすることに。待ち合わせ場所には、写真通りの素敵な女性がいた。女子というよりは、女性。僕より歳は一つ下だけど、大人びた雰囲気を纏った女性だった。会話がめちゃくちゃ合った。というより、誰とでも楽しく話ができる人なのだろう。高校からロンドンで過ごし、芸術系の大学を卒業しているらしい。そのせいか、価値観や思考回路が僕の周りの世界の人とは少し違う感じがして、新鮮で楽しかった。実家のお寺の話をしたら「仏壇って、もっとデザインできないんですかね?」とか「釣り好きの祖父の葬儀で魚を棺に入れて焼き魚にしました。」とか、なんかわからないけどすごい盛り上がって嬉しい気持ちになった。そのあと一緒に国連大学前のファーマーズマーケットにいって、一緒にクラフトコーラを飲んだ。生姜とゆずの甘酸っぱい味。これが忘れられない思い出の味になるとはこの時は思いもしなかった。
流石にしばらくは彼女を作る気持ちになれなかったので、素敵だったけど、本当可愛くていい友達という感じで、付き合うつもりはその時は全くなかった。その証拠に、自分でも信じがたいがこの日の最後に「いや〜ついこの前彼女と別れたんですが、いいリハビリになりましたわ。あざーっす!」とほざいていたらしい。我ながらアホすぎ。。。ごめんね。

その日が相当楽しかったので、その後そんなにしないうちに何度か会った。飲みにもいった。一緒に飲んだ日の夜、駅のホームで勝手にエモくなって、「なんか、本当にありがとうね。」と伝えたら、全力の笑顔で「気持ちわるーい!」と言われた。2019年のベスト気持ちわるいを頂いた。あざす。もしかしたらその頃にはもう、ちょっと好きになっていたのかもしれない。そうしてその次のデートで付き合うことになった。まじで、告白するとは自分でも全く思ってなかったけど、このタイミングを逃したらただの友達になってしまう、と思って、流れで告白した。前の人のことが忘れられていたわけではなかったし、もうちょっと待って欲しいとも言えたけど、なんの道理があって相手に待たせる権利があるのか、みみっちい!と思い至り、そういう葛藤も全部話した上で、告白した。何時間か検討していただいた末、OKをもらえた。
どうなるかわかんないけど、とりあえず付き合ってみようよ。いかにもミレニアム世代っぽいスタートで、新しい生活が始まった。

さて、まだ2月で3000文字弱。このペースで行くと2万字だ。卒論かよ。まあ大丈夫、5−10月くらいはまーじで低調な日々になる。

その頃、仕事は1年目も終盤を迎え、大きな仕事ができるようになっていった。担当するクライアント先で、来期のデジタル施策が書かれたA3の紙を数枚を広げられ、ざっくばらんに議論しましょう、というような相談もいただいた。僕らは基本的にはあくまで広告の領域でのお手伝いなので、マーケティングの全体像を共有してもらって、広くご相談、という場を設けていただけるのは非常にありがたいことだった。またとないチャンスと思って、全力で打ち返すべく尽力した。いろんな人に頼らせてもらいながら提案書を作っていったが、やっぱりどうしてもお客さんが期待してくれているほどのものは返せなかった。完全なる力不足だ。広告の部分最適な提案はできても、全体の大きな絵を書くほどの知識も経験もまだなかった。悔しかった。だけど、もっと広い世界に向いて仕事をしようと思えるようになった良いきっかけになったとは思う。

それから、3月は会社でアワードというものがあった。社長賞や部門賞、新人賞などその1年での成果が表彰される機会だ。入社した時から、新人賞を目標に頑張っていたので、エントリーの資料は作り込んだ。いろんな人にアドバイスをもらいにいった。絶対に賞を取りたかった。仕事以外にもお寺の活動とか、社外でいろんなことをやっていきたいと考えていたので、それをやるためには新人賞のようなわかりやすいラベルが必要だと思ったのだ。君さ、社外で色々やるのはいいけど、本業ちゃんとやってんの?みたいに思われるのが嫌だった。仕事も全力でやってる上で、社外でも活動してると思ってもらいたかった。結果、無事に最優秀新人賞をもらうことができた。もちろん自分自身も頑張ったけど、それ以上に周りの人によくしてもらって、たくさんチャンスを頂けた結果だと思う。
そういや副社長にその日の夜、「お前は辞めるなよ?新人賞とったやつはだいたいすぐ辞めるんだよ。」と言われたが、よもやその半年後にその言葉通りになるとは。。。自分でも予想していなかった。

4月。初配で配属された部署が解体になった。そもそも会社が3月に経営統合されたりいろんなことがあったんだけど、お上のことは現場にとってはあまり関係がなくて、部署が解散になったことが僕にとっては寂しかった。飲み会なんてほとんどないし、決して仲良しな部署ではなかったけど、各々が意識高く自分の仕事に取り組んでいて、自立した落ち着いた空気があり、学ばせてもらっていたし刺激をもらえる良い環境だった。
異動した部署は、それとは打って変わってとても仲がよく、サークルみたいな雰囲気の部署だった。馴染めなかった。目の前においた大きなスクリーンに身を隠す隠遁生活が始まった。

5月。2年目になり、担当する案件は倍増し、ますます忙しくなっていった。序盤は高いモチベーションで頑張れていたが、徐々に息切れしていくことになる。こんなことを思うのは、社会人になって初めてのことだった。「早く帰りたい。」
いろんな理由がある。めちゃくちゃ忙しくなったこと。その一方で、仕事は慣れて心には余裕が出てきたこと。信頼できる先輩が周りにいなくなったこと。社内で一番尊敬していた先輩と同期がやめたこと。いろんな状況が重なって、モチベーションが下がっていった。

中でも一番大きかったのが、消費財メーカーの案件で一緒に仕事をすることになった営業さんとの関係に悩まされたことだ。40歳くらいで独身。朝遅めにきて毎日深夜まで残業。言い方は悪いが、いわゆる「仕事しかない」人だった。性格が悪いとか仕事ができないとかでは多分ないんだけど、根本的に仕事に対する考え方が合わなかった。3で済むところを10やろうとする。10やろうとするから対応が後手に回る。生産性、効率という観点が抜け落ちていた。組織としての役割分担とか、立場的な難しさとかがあって、客前に出て仕切らせてもらうこともなかなかできなかった。最初はどうやってこのおじさんを攻略するかと考えていたが、次第に出来るだけこの人との仕事の時間を減らそうという方向に変わっていった。とにかく時間が勿体なさすぎた。僕の前任でこの仕事をやっていた先輩女子は、私の貴重な20代の時間を返してほしい!とよく話していた。こんな記事があった。どうやら世の中みんなこれで戦ってるらしい。

とはいえ仕事を投げ出すわけには行かない。出来るだけ関係性よく、効率もよく仕事を進められるように工夫を凝らした。よく言い合いもした。戦った。そうしていつの間にか、全然本質的じゃないところで消耗していった。自分のいいところが全然活かせてないと思ったし、配属の采配クソだなとなんども思った。その度に「他責にし始めたらやばい。自責思考だ。」と思い直して頑張ったけど、どうしてもうまく行かなかった。

やり場を失った成長意欲や前向きなモチベーションは、会社の外へと向かっていった。友達とベルト専門店を始めたり、お寺で婚活イベントを企画してみたり、仲間に誘われてアイデアコンテストに出てみたりした。結局、全部うまく行かなかった。何かを始めるには、魂を込めないと立ち上がらない。片手間でできることなんてほとんどないんだなというのが、この時の唯一の学びかな。関わった人には申し訳ない気持ちでいっぱい。落ち着いたら、また少しずつ進めていきたい。

こんな感じでうだうだやっていたのが8月くらいまで。こんな感じの日々だったけど、なんとか楽しくやれていたのは、2月に出会った彼女のおかげの部分が大きい。ほんとにびっくりするくらい穏やかで幸せな日々を今まで送らせてもらっている。ある休みの日、何やら大きなビニール袋を下げて彼女がうちにやってきた。え、何買ってきたの?と聞くと「パンケーキの材料買ってきた。明日の朝焼こうと思って。」とのこと。そんなありえない出来事がしばし起こった。卵をジューと焼く音で目覚める朝。そんな日が僕に訪れるなんてーーー。
センスがよくて色々整っているので、乱れきった僕の部屋はすぐに大改造ビフォーアフターされた。デカイ本棚と勉強机とベットを買った(買わされた)。
「掃除?はあ?掃除なんて、してもしなくても自分自身のスキルや能力には全く関係ない。であれば、掃除する時間で本読んだ方がいいだろ。」
そんな僕を、人間にしてくれたのも彼女だ。掃除や家事の大切さに気づけたことは、僕の今年最も重要だった学びの一つだ。

それから8月は医療団体のセミナーに呼んでもらって、お坊さんの立場としてACPの話をする機会を頂けた。きっかけは3年前くらいからずっとお世話になっているよんなな会の脇さんの会。そこで出会ったお医者さんと医療メディアの人と話していて、たまたま人生会議の話になって、卒論でそのテーマを扱ったことを話したら、お坊さんの立場から彼らの主催する勉強会で話題提供させてもらえることになった。医療関係者ばかりの前で話すのは少し気が引けたけど、改めて自分の頭の中を整理する機会になったし、想像以上に興味を持ってもらえて質問やディスカッションが盛り上がったのでよかった。名刺交換の行列ができた時はめちゃ嬉しかった。チャンスはある。やっぱりこの領域頑張りたい。正直今はまだ本当に心入れてやるほど関心が強くない(自分ごと化できてない)のだけど、いつか本気で取り組みたい。今年は医療業界の人と多く繋がりを持てたのがよかったなあ。

そのあと、8月末は仏教の通信制学校の最後のスクーリングだった。やっと終わった。毎月のレポートは、たかが月3、されど月3で、2年間仕事しながら続けるのは大変だった。なんとかやりきれた。少しずつ、教えの全体像が見えてきた気もする。少なくとも前には進んでいる実感がある。
少し話は飛ぶが、今回のスクーリングでの一番大きな学び。それは、僕はずっと自分が「根がポジティブ」だと思ってそれが強みだと思っていたけど、実はそれよりも前に「根が傲慢」だった、と気づいたということだ。「根が傲慢」。パワーワード。授業で先生からとある指摘を受けて、そこから感じるようになって、結構自分の中でしっくりきちゃっている。
基本的にどんなことでもなんでも前向きに捉えられるし、会社では周りの人に負けない・今は勝てなくてもすぐ追い越せると思ってる。そのポジティブな姿勢が前のめりなチャレンジ精神を生み出してくれてるのだとは思う反面、それで本当は学べるはずのことを見逃していたり、周りの声を聞き逃したりしていた気がしないでもない。多分新人賞とってから、少し気が大きくなってたんだと思う。具体的に書き出すとこんな感じか。
・何かに対してわかったつもりになる
 →わかってると思うとそれ以上に学ぼうとする姿勢が薄くなる。
・周りの人から学び取ろうというより、学び取れるものはないと思い込む。
 →能力や経歴など外見で判断してしまって、人をちゃんと見れなくなる。
・ミスることはあっても本質的には間違ってないと思い込む。
 →アドバイスを心からは受け入れないし、変わるチャンスを失ってる。

そしてその雰囲気は、実は周りに伝わっていて、この前の振り返り会でこの事を話したが、やっぱ感じてる人は感じてた。たまーに同じようなことに気づいて内省するんだけど、すぐ忘れちゃうんだよな。
「根がポジティブ× → 根が傲慢」と言語化できたのが今年1番の学び。これから定期的に思い出していきたい。

9月は決断の月になった。転職をする決断だ。8月末くらいに思い立って上長にメールを入れてみたことから一気に事が進んでいった。すぐに面談をしてもらって、仏教のスクーリング中も悶々と考えた。でも結局、悩み始めた時点で答えはもうほぼ決まってたんだよな。やめるという相談をしてからすんごく色々考えて迷った。この話は書くのがあまり楽しくないのでここでは書かないが、別の機会に気が向いたら書きたい。でも辞めると決めてから、すごく色んな気づきがあった。これまで習慣化され固定化されていた会社での日々に揺らぎが生じることで、周りの人も変わって見えたし、自分自身の心も色んなことを感じるようになった。それはなかなか面白い経験だったと思う。
それにしても、辞める前はいわゆる退職エントリを書こうと思って頭の整理したり準備してたんだけど、11月から有給を使って新しい仕事に入るにつれ、まーじでどうでもよくなっていった。人生を前に進めない行為に意味はないですな。さっぱり。

それから、9月は誕生日。25歳になった。最近驚くのは、サッカー選手で25歳だと、もうキャプテンマークを巻く人が出てくるということ。まじかって感じ。基本的に下っ端の立場である事が多いので、リーダーシップを求められる場面があまりない。同年代の選手がキャプテンやってるのとか見ると、結構焦る気持ちになる。自分がとてつもなく小さい世界で生きているような。今年も立場的には下っ端でいる事が多いと思うけど、出来るだけリーダーシップ発揮できるようにしたい。恩師の東の食の会の大就さんが「自分が行く全ての場所でリーダーシップを取る、と決めておけば簡単だよ。」といっていたのを思い出す。無理と思わず頑張ろう。

誕生日は彼女と台湾に行った。僕も彼女も台北には行った事があったので、今回は台中と台南に行くことに。台北九份がすごく楽しかった印象があったから、正直こっちはそんなに期待してなかったけど、めちゃくちゃによかった。アイリープ同期のむっちゃんが台湾で仕事を始めたので、むっちゃんに色んな場所を案内してもらったのもよかった。おかげでディープな台湾を味わう事ができた。あとお金も借りれた笑 二人とも海外でお金が下ろせないという謎のトラブルあり、初日夜はめちゃ疲弊した。でもそこでなんとか辿り着いたブルータスに載ってた料理屋でめっちゃおもてなししてもらったのいい思い出。あと懇丁もよかった。台湾随一のリゾート地で、リゾートの良さを知ってしまった。2万弱くらいで最高級のホテルリゾートに泊まれて、超広い部屋でリッチな気分味わうのいいね。海外旅行の新世界を見た感じ。今まで興味なかったセブとかバリとか急に行きたくなった。2020年はどこに行けるかな。あ、あとは仏教テーマパークか。楽しかったけど、1番の目当てだった洞窟が閉まっちゃっててまじ後悔。死ぬまでに必ずリベンジしたい。
彼女はどこに行っても、キャッキャはしゃぐって感じではないけどニコニコ楽しそうで、一緒にいて幸せな気持ちになる。夜、プライベートビーチで海と星見ながら語れたのよかった。最終日の夜、ホテルで僕のパジャマを我がもの顔で履き、夜市で買ったタピ吸いながらベッドでスマホいじってるの見て、なんかわからんが、めっちゃ好きーつれえ〜ってなってめっちゃ写真撮った。

さて、いよいよ振り返りも終盤。10月以降は怒涛の3ヶ月だった。まず転職。社長の小川さんには、実は3月くらいから誘ってもらっていて、その時はまだ社名も決めたばかりで、事業も何にするか定めきれていないような状態だった。だけどそんなタイミングなのにどストレートに誘ってくれて「変態のユートピアを作りたい」「今は秦くんと忍者に声かけてる」とかなんかはっきり覚えてないけど、すごい楽しそうだと思った記憶はある。指標の話はしてた。人間の欲望に目を向けず綺麗事をいうのではなく、欲に浸ってじっくり受け入れ、その上で人が動く力学を見定め、正しい指標を設計していく。めちゃ共感するし面白い世界観だと思った。ここで働いたら、お坊さんとしてもより濃い経験を積めるという直感があった。

その時は流石にまだ代理店でやりたい事がたくさんあったので決められなかったけど、その後Hakaliも色々なフェーズを経て、改めて9月くらいに声をかけてもらった。というか僕からアポお願いした。そしたら「お、準備できたか」って感じで呼び込んでくれた。

どの選択が自分に取って最善か、打算的な思考含めて色々と迷ったりしたけど、結局最後はシンプルに心の声に従って決めた。計算より感情。ワクワクする事したい!それに尽きるなと思う。facebookの投稿は割と短い文章になったけど、ほとんどそこに凝縮した。あれこれ書いたり消したり、作るの半日くらいかかった。今までで一番いいねがついたのは、応援してくれる人がたくさんいるんだという事だな。ありがたく受け止めよう。

 そうして12月。この1ヶ月は、ここ数年で1番早く過ぎ去った1ヶ月だったと感じる。1週間がまじで早くて、気がついたら年納めになってた。
・土日とか考える暇ないくらいとにかく楽しい
・全てがわからなくて新しい事なので、勉強しながら仕事してたらあっという間に1日が終わってる
・社長に付いて回ってる分アポも多くて、余計に時間がすぎるのが早い
って感じで濃密でスピード感溢れる日々を過ごしている。何もできなくてサバイバルな毎日だけど、なんだかんだで1ヶ月前は想像もつかないほど色んな事ができるようになったし、それ以上に学びたいことができた。
おじさんベンチャーで、数多の戦場を渡り歩いてきた猛者ばかりの中、僕なんかに声を掛けてくれた真意はいまだによくわかってないけど、その賭けを正解だったといってもらえるように頑張りたい。社長やメンバーにもちょっとずつ認めてもらえるようになってきて、1月からは研修生じゃなくて戦力として働けそうだとも思えている。楽しみだ。
12月の学びは、書き始めたらここまでの振り返りと同じくらいのボリュームくらいで気づきが書けちゃいそうなので、それは別の記事で書くとしよう。タイトルはこんな感じにしたい。
ExcelのVlookupもわからなかった僕が、○ヶ月で○○ができるようになるまで。」
一回やってみたかったんだよなーこういうの。書くの楽しみ。

 さて、最後に2020年の目標を。。。
 今年(もう年越したw)の抱負はズバリ、「喫粥了(きっしゅくりょう)」だ。
禅の言葉。一昨日くらいにふと浮かんできて、これだこれしかないと思った。柔らかく言えば、「丁寧に生きること。」
今年からBAR PORTOで1日店長をやらせてもらえるようになった。それで坊主バーのメニュー考案のために禅の言葉をよく調べるのだけど、そこで見つけたのが「喫粥了(きっしゅくりょう)」という禅の言葉。「おかゆを食べたら器を洗いなさい。」ただそれだけの言葉なんだけど、これが妙に心に残っていた。なんだか大事なこと全てがそこに集約されているような感じがした。
作って食べて片付ける。これは遥か昔から変わらない。食べることが当たり前ならば、そのお茶碗を洗うことも当たり前。当たり前のことを、しっかりできていますか?と問われている。

最近は色んな自己啓発本が出てきたり、仏教では禅やマインドフルネスが流行っている。そこで語られるのは、大きな話や目を引く内容ばかりだ。マインドフルネスだーといってその時だけイマココをして、整ったー!集中力が高まったー!とか言ってても、結局デスク散らかして、家ではグータラして脱いだもの食べたもの散らかして、ってしてたら全然意味がない。自分の都合の良い時だけやる行いや効果はきっと定着せず、いつか忘れていってしまう。
新しいライフハックが出たらまた飛びつくような、そんな次元ではなく、もっと根源的なところ。自分を根っこから見つめ直し続けていくこと。日常の中のあらゆる場面で、自分を真ん中に立ち戻らせてくれる行い。それが喫粥了の生き方なんだと思う。多分、これができない限りは何をやっても絶対に進めない境地がある。逆に言えば、これができれば世界が変わる気がする。なんでこんな風に思ったのかはわからないけど、直感的にそう感じる。
ヌメッとした自分から、清流のような自分へ。すぐには変われないと思うけど、積み上げていきたい。なんだろう。そこを目指したいと思えるようになっただけで、すごく心がスッキリしているのだ。昔にはなかった落ち着きが自分の中にあるように感じる。いい感じ。

いやはや、年末年始はいつもこういう振り返りをするけど、本当にいい時間になっている。めちゃくちゃ色んなこと考えられる。正月最高。

この「正月気分」が抜けないように、日々の当たり前の行いを通して立ち返っていきたいと思う。

今年も頑張ろう。去年の僕に戻ってたら、指摘してやってください。

なんかやる

お寺でなんかやる。日々色んな人と情報交換させてもらえる。色々やりたいと思う。可能性を感じる。そのことをちゃんと記録しておこうと思う。

まず自己紹介は結構いい感じに話せるようになってきたな。今日の自己紹介は気持ちよかったなあ。

さてさて、今日は色んなスタートアップの人たちと話す機会があった。
基本的に起業家たちの出発点は、課題なんだなと改めて思った。
色んな課題ベースで、お寺の活用方法を考えてくれた。逆に、お寺の課題をたくさん聞いてもらえた。

・病院が老人たちの遊び場になってる問題。寂しいから病院に行って話を聴いてもらう的な。医療費の支出はもちろんのこと、普通に診療したい人がめちゃ並ぶことになる。

老人たちの本質は、居場所がない、寂しいということ。それならば、お寺がそういう場所であればいい。心身ともに健康であれる場所を、お坊さんとお寺なら作れるかもしれない。

・大学生のニート化問題。特に一人暮らしの大学生が、大学生活のやる気を失い、日々無気力に過ごしてしまうようになる。彼らをいかに社会参画させられるか。

大学生に最低限生活できるだけの報酬を与えうつ、社会に貢献させる。いかに社会参画させられるかというところでお寺が使えないか。

・空き家、空き寺問題。人口減少に対していかにこの問題に取り組んでいくか。

みんな一緒になんかできないかなあ。

 

僕はこういう風なことしたい って思ってるけど、まだ全然具体性が足りない。できることあるはずだけど、具体的レベルまでおとしこむための情報が足りていない。

・お寺側の強み

・お寺側のコンディション(どういうことならやってくれるのか、くれないのか。余力がある人はどこにいるのか。)

・お坊さんたちがやりたいことは何なのか

紹介、橋渡しするならば、まずは最低限ここは抑えておかねばならぬだろう。自分がこういうことやりたい!ってより、現場の人が何やりたいのか、そこを大切に拾い上げる。

逆に、世の中の人がどういうことしたいのか、お寺にどう可能性を見出してくれるかもちゃんとヒアリングする。

そのあたりの力をもっともっと強めていきたいと思います。

やることはだんだん見えてきている!行動あるのみ!

素直じゃない

こっちのブログはあまり人に見られることを意識せず、気楽に書きたいと思う。

今日は仕事終わりに久しぶりに坐禅会へ。期待したほどの間隔は得られなかったけど、じわじわと、普段見えないように心の奥底に閉じ込めている、自我の子供たちみたいなのがそわそわしだしてるような感じがする。

あーあ、なんか自分、素直じゃなくなってる。傷つくのが怖いプライドが高い臆病者になってる気がする。

自分を繕うこと、傷つくことから回避すること、そういうのがうまくなりすぎて、ハッピーに生きられているような気がするけど、ごまかしてるだけなのかも。

昔のほうが、傷ついたり、悩ませられたり、内面をダダ流しすること多かった。

オープンマインドになるの得意だと思ってるんだけどね。なんか全然できてない気がする。あーあ、小山の上で勝った気になってる、昔は絶対なりたくなかったボケになっちゃってるかも。あーあ。

会社ではのびのび自信もって仕事できちゃってるし、登るべき“整備された”高い山もある。ライフワークのほうでも目標がある。そっちでも期待されてるし、自分の地位を脅かすような人がいない。

なんでこーなっちゃったんだろ。今の環境があまりに安全すぎる。

大きな夢があって、人が好きで、まじめで優秀で正直 みたいなキャラ、いいキャラすぎる。上手くいきすぎてる。なんか脅かされることないと変われないかも。

なんでしょう。自分が嘘ついてる感じがするんですよね。とっさにいい感じにふるまってるだけで、本当のことじゃない みたいな。

話しててちょっと表情こわばってしまうような、本心で語りたい。

たぶんね、本心で語ることを繰り返していったら、おのずと自信ってついてくると思うんですよね。自分を信じる。なるほどね。

なんか、それっぽいことばっかりいってその場はうまく回るけど、本心じゃない。そういうこと言うのに慣れ過ぎちゃうと、だんだんそれが自分の言葉だと錯覚していくんよ。いい感じに話すと気持ちいいし、どんどんね。でもね、たぶんそういう話ばかりしてる人って自分に自信ない人多い気がする。自分を信じれない。なるほど。

めえええええっつちゃコミュ力高いのに自分に自信なさすぎ みたいな人結構いる気がする。あーあ、俺は自分に自信は持ってるけど、本心で語ってるなあと思う人に対しては、下手に慎重に出る気がする。そういう人に対しては自信ない。

まあね、いったい本心で語るってなんだよ!って言われそうだけど。俺もわからん。逆に、自分の言葉に自信を持てるような言動をしていくことが、本心で語るってことなのかもね。

 

俺は本当に傷つくのを恐れている。まあ当たり前、傷つきたい人なんていない。

あーわかった。傷つき回避能力が高くなりすぎてるんだ。こんだけ生きてたらスキルアップもするよなあ。

そうやって傷つくこと≒自分が向き合いたくないこと、苦手なこと、コンプレックスから回避し続けてるから、ほんとの自分じゃないように感じちゃってるのかも。

 

あーあ。なんでこんな癖ついてしまったのだろうか。これは自分のベースになっちゃってるから、簡単には直せないし、そもそも気づくのすら難しい気がするけど、ゆっくり直していかないとだめだなこれは。

坐禅は継続したいな。マジで。頑張ろう。ちょっとだけでも自分を殻を外す機会になるになるなら、積極的に実践していきたい。

 

そんな俺だが、幸せを感じるのは、

「自信を失ったり臆病だったりネガティブな人をエンパワメントすること」

だなと思いました。
幸いなことに、俺は超ポジティブに前向きに生きられているので、それは強みとしてとらえて、ネガティブな人を勇気づけて、一歩踏み出させるサポートができたら本当に幸せだな。ネガティブな人はほっとけないんだよなあ。なんか。

 

頑張って生きよう。自分の心の声。素直。嘘つかない。

今年の目標、決め過ぎないこと。この目標決めて良かった笑 色んなことを改めて思考整理するときのよい軸となっている。

人にばれるからな。そういうの。ちゃんと信頼してもらえるようにがんばろ。エンパワメントすることが一番幸せなんだから、そういうチャンスが巡ってくるように、本心で等身大で生きていきたいね。

2018年の振り返りは9500字

年末までバタバタして、もう大晦日になってしまった。実家に戻りやっと一息ついて、年末の振り返りでもしようかと思いPCを開いている。
去年の振り返りブログは8000字を超える超大作。見直してみると、いやはや、極めてエモい!
2017年の1月はまだ竹田とルームシェアをしていたというのだから、ものの2年で本当にすごい変化があったなあとしみじみ。時系列で振り返ると、自分が過ごしてきた時の流れがわかるのでとてもよいね。
というわけで、今年も1年間をじっくり振り返ってみようと思います。

 

まずは1月。僕は18入社であるけど18卒でもある。当たり前だけど、2018年の3月までは学生だったんですね。その時点でちょっと驚く。
1月は卒論追い込みのピークだった。年明けからはずっと論文や書籍を読んでいたと思う。
テーマは「終末期医療における日本の課題と、臨床宗教師が持つ可能性」。
経営学のゼミだったので、論文はお寺の経営で書こうと思っていて、先祖供養に依存しない持続可能な形を模索しようと、お寺でイベントをやるとか、地域コミュニティとか、色々可能性を検討した。だけど1周回って結局戻ってきて、やはり先祖供養のところが大事だな、いかに持続可能にできるかを考えたくなって、こういうテーマになった。
このテーマで論文書けて良かったな。今までほとんど触れてこなかったことだったので、新しいことをたくさん考える新鮮なきっかけになった。Facebookに投稿したら、めちゃくちゃたくさんの人が読みたいと言ってくれて、それも嬉しかったなあ。何か一つのことについて深く研究するなんてことこれまでなかったから、とてもよい経験になった。学問の深さを知ることができたし、学ぶことの楽しさを再確認できた。

秦 正顕 - 【卒論書いたから読んでほしい!】 「終末期医療と死生観、宗教者の関わり」... | Facebook

 

卒論が終わった後は、そのまま最後の定期テストに突入。全部テスト100%の授業だったから、テスト勉強の詰め込み度合いは半端なかったと思う。笑
しかし、最後のテストと思うと、感慨深かったな。この時期は何をするにも「最後か。」という感じがして、毎日エモかった。
と言いつつ、ギリギリまで卒論をやったり、その後の卒業旅行、華園学園のスクーリングなんかもあって、めちゃくちゃあわただしく日々は過ぎ、気づいたら全部終わってた ってかんじだったなあ。

そして2月は卒業旅行。2月5日から19日くらいまでの旅程だったかな。前半戦は、大学1年からの旅仲間のタケルと意識高い旅行。ポーランドに入って、ワルシャワアウシュビッツなどを見て、ウクライナチェルノブイリツアーに参加、その後彼女と合流して、ギリシャクロアチアを回るような旅程だった。限られた旅費、人生で初めて一人で飛行機に乗る彼女との合流案件、野犬に襲われ生死を彷徨うタケルとの合流など、行く前の調整が大変だった。笑 でも本当に何事もなく、全てスムーズに快適な旅行をすることができた。我ながらプラニング力に感服。
簡単に旅行を振り返る。タケルとは、お互いに初めて海外バックパックに行った時にも、タイで合流して遊んだくらいの仲。お互い初めてのバックパックで、びくびくしながらも初めての冒険に興奮してはしゃいだことを覚えている。
その後タケルは“未承認国家オタク”になり、ソマリランドやナゴルノカラバフ、沿ドニエストル共和国など国連未承認の国家へ次々と足を運び、現地の人にアイデンティティや幸せについてインタビューをするという、ド級の変態になった。
そんなタケルとの意識高い旅行。学びがないはずがない。自分の目で確かめながら、タケルが歴史背景を解説してくれてその場で議論ができるので、非常に思考の深まる旅行になった。
ポーランドに行く途中の飛行機で、ライフイズビューティフルと戦場のピアニストを観た。どちらもWWⅠ中のポーランドを描いた映画だ。機内でこの二つを見て、自分はなんて場所を行先に選んでしまったのだ と後悔した。笑 あまりに重く、悲しい歴史を知った。
だけどその分、現地ではすごくいろんなことを考えさせられた。アウシュビッツでは現地唯一の日本人ガイドの中谷さんに奇跡的にガイドをお願いすることができ(普通かなり事前に取らないと予約がいっぱい)、本当に貴重な経験をさせてもらった。あそこで起こったことは、「過去の狂人が起こした信じられない事件」ではなく、「現代でも起こりうる、普通の人間が起こした恐ろしい事件」だという認識に変わった。
正直、今の日本を見ていると怖い。水曜日のダウンタウンでのくろちゃんとしまえん騒動を見ていて、ナチスと近しい構図を感じてしまう。

news.livedoor.com

 

その後訪問したウクライナも、悲しい歴史を持った国。民族とは何だろう。人間とはなんだろう。と何度も考えさせられた。帰国してから読んだ佐藤優の「民族問題」はこの問題を極めて分かりやすく整理していて、超名著。何度でも読みたい本。
それから、ウクライナではチェルノブイリにも行った。ダークツーリズムの最前線 とでもいえばよいのか、良くも悪くも、観光化がとても進んでいるように感じた。
チェルノブイリ放射線量は、ほとんどの場所で首都キエフと同等のレベルまで落ちてきているが、池や窪地などホットスポットと呼ばれる場所がいくつかあり、極めて高い放射線量を示す。ただ、そういう場所には立て札もたっているし、人が住めないということはない。
しかしながら、今となってはほとんど人は住んでおらず、生き物は野犬くらいだろうか。雪深く音一つない時が止まった町に、胸が詰まりそうになった。
んでだ。そういう場所だが、観光地化はよく進んでおり、ツアーはさながら廃墟ツアーといった感じで、ガイドのお姉さんがポップに町を案内してくれる形だった。ツアーは毎回満員で、世界中から、興味本位の旅行者が集まっているような印象を受けた。
ツアー料金もウクライナの物価からするとかなりの高額で(日本の感覚だと、日帰りのツアーで3、4万円といったところか)、国にとってもかなりの観光ビジネスになってるのではないかと思う。
なるほど、被爆地のそういう未来もあるのか、と思う反面、かつては人々が明るく生活していた場所だと思うと、なんとなく悲しみと怒りが混ざったような感情が湧いてくる。福島がこうなったら、、、そう思うと、やりきれない気持ちになる。とはいえ、元住人の方を尊重するだけでもその土地の未来は見えてこない気もする。そのせめぎあいが本当に難しいところだと思う。これはまだ答えが全く見えてない。

長くなった。そんなこんなで学びの多い旅を終えて、後半は彼女と合流して、ギリシャクロアチアへ。弾丸旅程だったけど、ギリシャアテネサントリーニ島、天空の修道院メテオラへ。クロアチアでは、ドブロブニクザグレブプリトヴィチェ自然公園に行くことができた。どこも最高だったなあ。全部、何度でも行きたい町。特にドブロブニクは本当に気に入って、将来ここでノマドワーカーになるのもいいなとか考えたりもした。

さて、日本に戻ってきた後は、たぶんビズリーチインターンで有終の美を飾るために頑張ったり、ガンガン湧いてくる勉強欲を片っ端から満たしていったりしてたと思う。
3月頃につぶやいていたtweetに笑った。

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日々エモみを感じながら過ごしていたのだろう。笑
3月末には、のまっちに誘われてクスノキ合宿にも参加した。関西のコミュニティで、勉強大好きマンたちが集まって様々なテーマについて議論し学びを深めていくというような合宿だったんだけど、ここではなかなか衝撃を受けた。これまで出会ったことのないような優秀な学識のある学生たちがたくさんいて、4年生のこの時期にめちゃ危機感を感じたのを覚えている。劣等感を感じながらも、もっともっと上がいるということを知れたのは社会人になる前にとてもよい経験になった。

あとは、東北に行ってお世話になった場所を巡ったり、仲の良い親友たちと卒論発表会をしたりした。一緒にやった二人の「想像力」「液状化するアイデンティティ」はとても重要なテーマで、今でも折に触れて思い出させてもらっている。

あと、1年間お世話になった神楽坂のシェアハウスから引っ越しをしたのもこの時期。カグラボ最終日、みんなでカラオケに行ったんだけど、みんなが曲の一部を秦に変えて歌うという謎のノリに。オレンジレンジを歌えば「僕らと秦は以心伝心~」みたいな笑 これがなかなかエモくて、泣いた。笑 あったかくて、笑顔に溢れていて、本当にありがたい場所だったなあ。

さて、そうしてついに社会人になりました。社会人1日目のことは、こちらのブログに書き残してあった。今でもこの時の心境とはあまり変わっていないけど、改めて初心は忘れずにいたい。

hatasan.hatenablog.com

 

4月は1か月研修だったけど、正直、ストレス溜まってたなあ。笑
意識の低い同期、レベルの低い研修、低い期待値。。。また学校に戻ったかのような感覚だった。ビズリーチで色々やらせてもらえてたから、ギャップがすごくあった。
時間も有り余って、日々色んな事を考えながら過ごしてた気がする。

5月になり、会社では配属が決まり、厳しいとのうわさで誰もが行きたがらなかったパフォーマンス業推戦略ユニットという部署に入ることになった。データとかやりたかったから、正直もやもやしてたけど、まあ今はこの部署でよかったなと思っている。

社外では、よんななお坊さん会の第1回目を企画。なかなか頼れなくて、結構自分一人で抱え込みながら企画を進めることになって、精神的にきつかった。企画はバタバタだったけど、とても熱量高く、有意義と思える場を作ることができた。

秦 正顕 - 【第1回 よんななお坊さん会 開催しました!】... | Facebook

ここでの縁は今でもいたるところで繋がっており、それぞれが主催するイベントに招待しあったり、プロジェクトを一緒に進めていたり、小さいけれど新しい芽を生み出すことはできて、とても嬉しい。

仕事のほうは、6月から本配属となり、戦略U第二Gに配属された。希望していた社内のナレッジ集約やツール開発などを行う部署には行かせてもらえず、まずは現場で頑張ってこいとのこと。社内でも随一の忙しい部署だったので結構ショックだったけど、期待の配属だと信じて。。
1年目にはOJT制度があり、トレーナーがついた。そのトレーナーがなんと、札南の5期上の先輩で、且つ誰もが知る高校のスーパースター、高校史上初のドラ1で楽天に入団したピッチャーの寺田さんだった。そもそも同じ会社にいること自体驚きだったが、まさか隣で仕事をすることになるとは。。寺田さんとはすぐに打ち解けることができ、とてものびのびと仕事をさせてもらえた。

あと、この頃一つ嬉しいことがあった。学生時代の友人が新聞社の札幌支社配属となり、父の仕事を取材し記事にしてくれたのだ。

https://www.facebook.com/masaaki.hata.920/posts/2158747184359652

学生時代夢にを語り合った友達と、社会人になってこうして社会を舞台に共演できるというのは、人生において最高にうれしい瞬間の一つだなあとこの時思った。きっとこれからもっとこうやってコラボできることが増えてくるんだろうなと思うと楽しくて仕方がない。

 

さて、仕事のほうは、社会人としての基本的なスキルを学んでいた頃だと思う。トレーナーが超合理主義者のキッチリマンで、自分の性格と真逆というか、自分がこれまでなあなあにしてできていなかったことを一つ一つ矯正していってもらった。笑 納期を守るとかね。

こんな記事を書いていた。

note.mu

最初の基礎固めの時期は、どうしても色々溜まってしまうよね。悶々としてますね。笑

仕事は早く退社していたので、勉強する時間はたくさんあったみたい。仏教の本や広告の本を色々読み漁っていた。

note.mu

あと、この頃から、これは今年の大きな成長ポイントであるけど、“決め過ぎ”傾向が見え始めた。
社会人になって、人生のステージが一つ進んだことにより、生き方について考える機会が多くなった気がする。僧侶としてどう生きたいか。ひいては一人間としてどう生きたいか ということを考えるようになった。それはそれでいいことなのだけど、このことが自分を苦しめた1年だった。
簡単に言うと、こういうこと。こういうふうに生きたい が、こいうふうにあるべきだ と変化し、最終的には こういうふうにしなければならない といつしか自分に縛りを設けて、それに苦しめられるようになっていたのだ。
こうしなければ に囚われて、自分の思考を狭めるだけでなく、他者への不寛容にも繋がってしまっていたような気がする。色んなきっかけで、この囚われからは徐々に離れていくことができたのだけど、これが今年一番の成長ポイントかな。

10月頃かな、雑誌「たたみかた」のイベントで藤田一照さんとお会いさせて頂いた際、悩みのたけをぶつけさせてもらった。そしたら一照さんは、笑いながら「いいねいいねえ~。それでいいんですよ。」と言ってくださった。これがすごく印象的だった。
悩むことはとても良いこと。仏教の教えを頂きながら、自分の生き方を見つめ続けていくことが、仏道を歩むということらしい。
何かすごい答えがもらえるだろうと期待していたから拍子抜けしたけど、だからこそ、「あ、これでいいんだ」と不思議な安心感をもらうことができた。

 

さてさて、話は戻って、8月は華園学園の1週間のスクーリングがあった。仕事を1週間休んで缶詰めになって仏教を勉強する時間は、意外にも有意義で学びの多い時間になった。仏教の教えを自分事として今の環境と照らし合わせながら考えることができるので、生きた教えとして自分の中に吸収できた気がする。あと、浄土真宗の教えをようやく体系的に理解できるようになって、自分の頭で色々考えられるようにもなった。

秦 正顕 - 【フリースタイルな僧侶たち】 最近、暇があれば読んでいるのが「フリースタイルな僧侶たち」。... | Facebook

京都でのスクーリングの最終日、フリスタ元編集長の若林さんにアポを取って話を聞いてもらったのも、めちゃくちゃ良い時間だった。長々とまとまらない話をじっと目を見ながら聞いてくれて、適切な言葉をかけてくれた。この時書いてくれたノートのメモ書きは、今後も何度も読み返すことになるのだろう。

さて、9月は第二回よんななお坊さん会を開催した。集客に苦労したり、会場の運営者にご迷惑をおかけしたり、運営での至らなさあったけど、最終的にはよい会にできたし、大切なことを学ぶことができた。参加予定の人のことを考えて学びを最大化できるようワークショップを設計したりして、満足度の高い会にできたと思う。2回やって会の目指すべき方向も見えてくるようになった。
宗派を超えてお坊さんたちが集まる会はいくつかあるけれど、お坊さんだけだとどうしても、お坊さんの脳みそ“外”の発想は生まれない。よんななお坊さん会は、せっかく多様な人々と接続しているコミュニティなのだから、この社会との接点を存分に活用した会にしよう。ということで、
「お坊さんだけの会ではなく、お坊さんと仏教に関心のある公務員、ビジネスマン、学生、クリエイターなど多様な人が交わって、お互いの思考をぐっと拡張させられる場」というコンセプトにした。
自分の立ち位置としても、「仏教界とビジネス界の橋渡しになりたい」と思っているので、このコンセプトは自分の中ではとてもしっくりきている。ちょっとずつ連携しようという動きは芽生え始めているけど、まだ具体的なアウトプットは出てきていないので、今年は、どうやったらこの連携が実現できるのかということをしっかり考えて活動していきたいと思う。

10月。仕事で大きなターニングポイントがあった。これまでずっと隣で案件を一緒にやっていたトレーナーの寺田さんが異動になったのだ。まず普通に寂しかったし、案件も頼っていた部分があったので、不安も大きかった。後任に元ネット専業代理店出身でテレビ担当から異動してくる人が入ることになったのだけど、その人も前部署の引継ぎで全然入ってこれず、約1か月間、ほとんど一人で案件を回さなければならない状況になった。
これが今思うととてもラッキーな状況で、自分がやらないとどうしようもない状況になったことで気持ちが切り替わり、仕事に対して主体的に取り組むようになったし、周りに頼らなければどうしようもない状況で、頼りながらがむしゃらに仕事をしていく中で、少しずつ営業や運用担当と信頼関係を築いていくことができた。11月になり新しい人がようやく案件に入る頃には、もうほとんど自分で全てこなせるようになっていた。
この頃から得意先にも出ていくようになり、レポートやプレゼンの経験を積ませてもらえるようになっていった。
やっぱ、こうやって主体的に動けるようになってやっと仕事も楽しくなってくるね。10月は、仕事においてはかなり大きな転機になった気がする。上長からも、10月急成長して非常に頼もしく思っていると言ってもらえた。

あとそうだ、秋は「芸術の秋」「スポーツの秋」というけど、ちょうどその頃、音楽やアート、スポーツなどに対して尊敬というか、何と言うか、すごい!という思いが盛り上がった。
その想いはこのブログに熱く記されている。

note.mu

こういう感じ。

音楽、スポーツ、アート。こういうものに共通するものって何なんですかね。

“全身全力のエネルギーの結晶”

もっといい表現ある気がしますが、ニュアンス的にはこんな感じかな。
音楽にしてもスポーツにしてもアートにしても、どれも何かに全力で向かい合ったことが結晶となって、僕たちのもとに届いてるんだなと。
やっぱ人間だれしも、人が何か想い持って本気になってやってることに心打たれるんじゃないかと思います。
同じスガシカオの歌をなんぼ歌の上手いコピーバンドが情熱的に歌ったって、本人が歌うのには絶対勝てない気がします。

きっと、心を動かされるのって、たぶん、歌のうまさとか、スポーツでいえば勝った負けたとかそういうことじゃなくて、その人の人生そのものに なんだと思います。

人を元気にしたいとか、支えになりたいとか、少しでも思ってるなら、まず自分が全身全力で生きること。それが大事なのかなと。

色んな名言とか、仏教の教えとかも一緒で、そういうのって、きっと、言葉自体がすごいのではなくて、重要なのは、誰がどういう想いで言うかなのかなと思いました。

というわけで、“全力”と“表現すること”を心に置いてしばらく過ごしてみようかなと思っています。

 

 こういうことを少しずつ感じるようになっているのが今。生きざま!命燃やしたいね。

さて、そこから12月末までは、駆け抜けてきたなあ。仕事は超主体的スタイルになり、ガンガン既存のやり方を変えたり新しい提案をしたり進めていった。
社会人になってから「仕事楽しい?」って聞かれることがめちゃくちゃあったけど、今なら全力で楽しい!と答えられる。ちょっと前までは会社の悪口とか人の悪口とか言ってたよなあ。恥ずかしいね。

ちょっと話がそれるけど、会社を悪く言うときの気持ちの分析から、感情についてちょっと考えたことを。
怒りとか批判とかアマノジャクって、何かに対して自分が真正面からぶつかって傷つくのを避けるための対処法なんだと思う。めっちゃ抽象的であんまり伝わらない気がするけど。笑
自分が嫌な事されたときに、ただ受け止めるだけだと自分がみじめでつらいので、“怒り”という大義名分のもと自分を正当化し、傷つくのを防ぐ。
攻撃や批判もそう。何かしてる人に対して批判したりするときって、だいたいよく観察すると、自分が嫉妬してたりうらやましいと思ってるんだよな。そういうものに対して、批判できる部分を見つけて批判することによって、自分がみじめな気持ちになるのを回避する。
あとは、頑張ってる人を「意識高い系」といって揶揄するのとかも同じ構造。全部、自分が傷ついたりみじめな気持ちになるのを避けるためなんだと思う。
そりゃあ自分のことは守れた方がいいし、その方が安心して生きていけるはずだから、一概にそういう感情を否定はしないけど、たぶんメタ認知はしておいた方がいい。じゃないと成長できないと思う。僕もいつも忘れちゃうけど、日々自分を見つめなおして、より良い方向へと進んでいきたいと思う。

 

振り返りに戻って、11月、12月は仕事以外でも色んな人とのご縁に恵まれていたように感じる。新しい出会いもたくさんあったし、懐かしいご縁もあった。バーの一日店長やらせてもらったり、本当に楽しい日々だったなあ。。

「やりましょう!」

この一年、何回行ったか分からない。この一年で、自分としてもできることがめちゃくちゃ増えた。よんななお坊さん会を始めたことによる仏教界の繋がり、それから仕事を始めたことによるマーケティングの知見やデジタル広告の専門スキル。
去年の自分は、意識は高いが提供できるものは少なくて、去年の振り返りを見ても、自分の力不足を嘆いている様子が見て取れる。だけど今年は自分が提供できるものが増えた。そのことにより、出会った人と「やりましょう!」という会話をすることがとても増えた。
だけど結局、ほとんど実現できなかったなあ。次の1年は1つ、2つでも何か形に残せるようにしたい。これはマジで。

 

ふう、やっと1年分振り返れた。

こうやってまとめてみると、自分が過ごしてきた人生の充実度を改めて感じることができるし、確かに生きてきたんだと自分に自信を持つこともできる。
死ぬときまで書き続けて、本にでもしてもらって、孫やひ孫の代まで継いでいってもらいたいね。笑

 

最後に、最近考えていることを。途中にも書いたけど、2018年は、色々決め過ぎた1年だった。それで苦しめられた1年でもあった。
最近感じているのは、この世界は毎日めまぐるしく変わり続けているということ。自分の心も毎日めちゃくちゃ波があって日々変化しているんだと最近感じられるようになった。
調子がいい日もあれば、悪い日もある。仕事へのモチベーションが高い日もあれば、辞めたいと思う日もある。彼女のことが好きでたまらない時もあれば、全然そうでもない日もある。いろんな要因で心はめちゃくちゃ変わっていくものなんだよな。だから、ある時点で感じた感情とか思いに縛られる必要はないんだと思えるようになった。
「うっわ仕事もう年内で辞めよ。」って昨日思ってたとしても、今日仕事が楽しければ昨日の感情は気にしなくていい。常に今の心を観察して、過去の感情は気が向いたときに分析するくらいでいいかなと思ってる。
「うっわ仕事もう年内で辞めよ。」って思って転職活動始めた時期もあったけど、実際にエージェントと面談をする頃には転職の理由が全く思いつかなくて、???って気持ちになったりということもあった。

2018年は色んなもの(特にネガティブな感情)に囚われて、決め過ぎて、苦しんでいたので、今年はもうちょっと肩の力を抜いて、気楽に、新鮮な空気をいっぱい吸いながら過ごしたい。そうして、自分の心の声に耳を澄ませてみたい。

〇〇しなきゃ!という思考になったら、今こうして整理したことを思い出して、「本当にそれで大丈夫?」と問いかけられるといいね。

気楽に楽しく生きていこう2019!

いったん振り返り終わり。

 

2018年4月2日

2018年4月2日、僕の社会人生活がスタートした。

社長が話してた。「今日という日の気持ちを大切に持っておいてください。きっと何年か後、あなたにとっての大きな財産になるはずです。」と。

なんとなく自分でもそう思うので、熱が冷めやまぬうちに今の気持ちを書き残しておきたい。

内定を頂いてから、ずっと社会人になること、入社することを楽しみにしていたのだけど、なんでか入社前日、会社に入るのがとても憂鬱になって、「あれ、このままずっと寝てたらどうなるかな?」とか、変な気持ちになっていた。

不安と期待の入り混じったよくわからないコロコロした感情のまま、会社の集合場所に向かった。集合場所に行くと、すでに見知った顔がいくつかある。一人一人の表情を見ながら、懐かしい顔を見つけては会釈をしていくうち、なんともいえない安心感がわいてきた。「仲間がいる」と思えたのかもしれない。とにかく、ちょっともやもやしていた気持ちはすぐにどこかに行ってしまっていた。

 

「これから新しい生活が始まるんだ。」(エモ)

 

入社式。別に自分が何かやるわけでもないし、どうってことはないんだけど、勝手に緊張していた。

腹式呼吸をした。これは中学校の国語、書道の時間に心を整える時間として先生が促していた腹式呼吸が妙に好きで、今でもソワソワするときに実践していることだ。

椅子は浅く座って、手は軽く握って膝の上に。これはとある企業の選考で教えてもらった作法だ。

腹式呼吸も、椅子の座り方も、体が自然に動いたって感じ。

なんだか変な話だが、これまでの人生での経験を自分の中に取り込みながら、今の自分がここにいるんだなあと感じて、しみじみとこれまでの人生に感謝した。(エモ)

 

社長の言葉が妙に心に残った。こういう型通りのあいさつ文はあまり頭に入ってこないんだけど、今回はなんだかすごくよく心に入ってきた。

二つのメッセージとして「Endless Update」「moonshot」という言葉を頂いた。

これがどちらもすごく共感できるというか、自分の心にすっと落ちてくるものがあって、「これは社長の声だけど、仏様のお導きかな?」と思いながら聞いていた。どっちも絶対自分の中で持ち続けていきたい。

Endless Updateは、「常に現状に満足せず、上を上を目指して突き進んでいくこと。」だと解釈した。これは本当に自分の中で持ち続けていたい。これから一か月研修するわけだけど、どうしても同期の中での自分の位置を考えがちになると思う。仮にその中でまあまあできていたとしても、そこで慢心したら本当に終わり。あっという間に他の会社に進んだ友達に置いていかれてしまうだろう。常に高いところを見続けて、自分をアップデートしていきたい。これは何度でも自分に言い聞かせたい。

moonshotは、「初めて月を目指すような、壮大な夢を描きなさい」という意味の言葉。この言葉は知っていたが、正直入社式で社長の口から出てきたことに驚いた。ベンチャーの社長とかは言いそうだけど、これほどの大企業グループの社長でも言うんだ と思った。最近は想像力というものを意識しながら人と接するように心がけているのだけど、誰かの発言をそのまま受け取るんじゃなくて、「この人がこの場でこういうことを言うってどういうことなのだろう?」ということを意識するようにしている。社長がこの発言をした意図ってなんなのだろう。社長は、本気で世界一のデジタル広告会社を作りたいと話していた。

これを聞いて、「あっ、でかいこと掲げていいんだ。」と安心するような感覚があった。ちょっと前、同期と話していたこともその一つ。

「ネット広告を、心から良い広告だよねと言えるようにしたい。」

正直、今はネット広告なんてうざいものとしか思えていない。リニアな情報が溢れる時代に、広告を無理やり差し込むこと自体に無理があると思う。ただクリックしてもらえたらいいとか、そんなことだけじゃなくて、もっと本当の効果を追い求めたい。そして、心から「このネット広告は価値があります!」と言えるようなものを作りたい。そういう本質を追い続けることを、まず最初の自分のムーンショットにしたい。

 

色々感じたことはあるけど、初日はこれに集約されるかな。

 

あ、あと、「でかい会社に入れてよかったな。」と思う瞬間があった。まだ何も始まってないのに何言ってんだ?って感じだけど、とにかくそう思った。

「これからこんなにでかい山を登れるんだ。」と。(エモ)

マクロな対象としての“世の中”との距離が近くなった感じがした。社会に対して大きなことができそう。これからの坊主キャリアにとってもそうだし、きっとこれからの5年くらいはとても良い経験ができる、望んでいた環境はあるなと思った。たぶんこの感覚は間違っていない気がしている。

 

さて、寝落ちして今日になっちゃったけど、今日も頑張ろう。

ヨーロッパ旅行前半戦 メモ

テストや卒論、やりたいことに追われ、卒業旅行にいくなんてあんまり考えてなかったけど、大学で最初に仲良くなった同じ学部の友達のたけるに誘われたので、卒業旅行としてポーランドウクライナに行くことにした。

さらにせっかくならということで、後半は彼女を呼び寄せ、ギリシャクロアチアに訪れることに。

 

現在旅行も折り返し地点。彼女と合流するためワルシャワ空港にいる。簡単にここまでの旅行を振り返ってみる。

 

◆2月5日

朝に出発して、10時間の飛行機に揺られる。機内ではあらかじめダウンロードしていた「ライフイズビューティフル」と「戦場のピアニスト」を視聴。ライフイズビューティフルを見た時点で涙腺崩壊。心が苦しくなって、自分はこれからこのアウシュビッツに行くのか・・・という気持ちになって、自分の軽率さを嘆いた。そして続けて戦場のピアニストを視聴。こちらは本当に怖い映画で、戦争の恐ろしさを痛感した。ピアニストの感動ストーリーかな?くらいに思っていたので衝撃が大きすぎた。このあと自分はワルシャワの地に降り立つのかと、怖い気持ちになった。急に一人であることが不安になった。こういう悲劇の場所に自分が深く考えもせずに行こうとしていたことに対して呆れた気持ちになった。

ワルシャワに到着。飛行機でちょっと寝たので、怖い気持ちはちょっと薄れ、観光の気持ちを取り戻すことができた。

ついたのが夕方だったので、その日は軽くまちを散歩して、宿に荷物を置いてから旧市街地に繰り出した。寒くてウルトラライトダウンを着ているのに震えて帰りたくなった。夜ご飯は旧市街の近くのポーランド料理屋で。餃子みたいのと、くりぬいたパンにスープが入ってるやつ。あんまりおいしくなかった。夜はドミに入った瞬間寝てしまった。

 

◆2月6日

1日ワルシャワ観光。

・ワジェンキ公園

ここは夏に行くと毎週音楽会が開催されている西洋一美しい公園らしい。が、冬は雪に覆われ寒い。むろんコンサートもやっておらず。まあいい。すごく静かで、ショパンを聞きながら講演を歩くととても雰囲気があった。(ポーランドショパンの生まれた地)

水上宮殿なる場所には、なぜか野生のクジャクが・・・!5羽くらい佇んでいた。近くで見ても全然動じないし、何なんだ・・・。羽めっちゃきれいだけど、クジャクって飛ぶのかな?

あと、銅像もたくさんある。ニーブラの像もあった。

ショパン美術館

ショパンの半生がてんこ盛りに綴られる。とにかく展示が多い。楽しむための仕掛けがたくさんあって、ショパンのことをあまり知らなくても楽しめた。

・旧市街地

タイ料理を食べて、旧市街地へ。昨日は夜だったので、また景色が違う。露天商などもおり楽しかった。ワルシャワの旧市街地は、すべて戦後に復刻されたもの。ヒビまで再現したというそのポーランド人の不屈の精神に対して、世界遺産認定されたのだという。戦場のピアニストも観ていたので、非常に感慨深かった。

ワルシャワ蜂起慰霊碑

観光客があまり行かないというワルシャワ蜂起の慰霊碑にも立ち寄った。町はずれの住宅地、小さな区画だけど木に囲まれていて、外からは見えないとても静かな場所。まだ新しそうな花が供えてあった。彼らの魂は、いまなおワルシャワに息づいているとの碑文が印象的だった。

・ウェルスアンドファーゴ

そうだ、古着屋巡りもした。ポーランドには、量り売りの古着屋がある。量り売りの古着屋は、1kg当たりの重さで値段が決まる。三か所くらい回ったけど、それぞれkg当たりの値段が違っていて面白かった笑

ポーランドの街歩いていても、あんまりおしゃれだなと思う人がおらず、みんな同じような服装をしていて、古着屋もそこまで欲しい服はなかった。一着いい感じのがあったから買った。

ショパンの心臓の教会

ショパンの心臓が収められている教会がある。ワルシャワにはいくつかガイドブックにのるような教会があるのだけど、ここはちょっと雰囲気が違った。もちろん内装の美しさはあるんだけど、何より地元の信者さんがめちゃ足を運ぶ教会のようだ。ほかの教会とくらべて、地元の人がとても多かった。老人から若者、カップル、家族など、様々な人が訪れているのが印象的だった。なんでこんなに信仰が深いんだろう。たまたま神父さんがお告げ?みたいのをやる時間にあたって、小さい部屋に50人くらいだろうか、信者さんが集まって、復唱したり、歌を歌ったりしていた。僕もこっそり忍び込んで、後ろで見させてもらった。みんな思い思いに十字架をきっている。神父さんは謎の儀式をしていて、なんかまるい紙?花びら?みたいのをコップに入れたり出したりしている。そして最後にはそれを食べていた。。

しばらく眺めていたら、急に信者の皆さんが前後左右の人たちと何か言いながら握手を交わし始めた。すっかり油断していた僕は、まさか急に自分にも関心が向けられるとは思ってもおらず、たじろいだ。すると、一人のおじいさんがとてもやさしい目で握手を求めてきた。手があったかい。すごく優しい目でこっちを見ている。何だろう、すごく安心する気持ちになった。続けて何人かと握手したけど、なんだろうこれは。暖かい。これが隣人愛ってやつなのか。悪くない。いろんな世代の人との交流の場所にもなっていてとてもいいなと思った。初めてキリスト教を体験したけど、教会の雰囲気とか、こういう儀式とか、正直思想はあまり理解できないけど、体験としてはすごくよかった。

・たけると合流

何とかワクチン接種のめどが立ったたけるがワルシャワにやってきた。感動の再開を果たすべく空港へ迎えに行った。相当疲れがたまっていたのか、空港で寝てしまったら、たけるが到着していて、感動の再会ならず笑 なんで待たせるんだよ的な、哀愁のある再会になった。合流してドミトリーへ。長い一日だった。夜はケバブキングにて大盛りケバブサンドを食らう。

 

◆2月7日

この日は朝からクラクフに移動。そしてヴィエチリカ岩塩抗という世界最大の塩の洞窟へ。世界遺産なだけあって大迫力。螺旋階段を延々と降りた先に、地下世界が広がっていた。本当にここが地下かとびっくりするほどの巨大洞窟になっていて、1800年代前後の人が掘り進めたのだと思うと尊敬しかない。何年かかったらこんなすごいものができるんだという感じ。地下には巨大な教会があった。これも本当に見事としか言いようのない場所だった。最後、地上まで上がるエレベーターが「かご」って感じでスリル満点で面白かった。

夜はちょっとクラクフの街を歩いて、かんちゃんとその友達と合流してご飯。クラクフ超綺麗。雪が街並みに映えていた。教会の内装もこれまで見た中で一番きれいで、さすが最初に世界遺産に登録された10数のうちの一つだなと思った。

かんちゃんたちといったご飯もおいしかったなあ。じゃがいものミルフィーユグラタンみたいのがおいしかった。

◆2月8日

チェルノブイリ&夜行バストラブル

◆2月9日

夜行バス&注射

◆2月10日

チェルノブイリツアー

◆2月11日

キエフの街散策&オペラ

◆2月12日

彼女と合流