ホームレス問題の原因と現状の整理 リディラバのスタディツアーに参加してきた。

先週の土曜日にリディラバという団体が主催するホームレスツアーに参加してきました。

 

昔から、ホームレスには怖い印象があり、解決すべき問題だなあと思っていたのですが、

「あれ、そもそもホームレスってなんで存在するの?」

という、素朴な疑問がありました。生活保護があって、国民の権利として最低限の生活は保証されているはずなのに、どうして路上生活で生活に困窮してしまう人が出てきてしまうのだろうというのが疑問でした。

 

今回たまたまリディラバがツアーを実施していることを知り、いい機会だと思い参加してきました。

 

ツアーはホームレス支援の団体や元ホームレスだった人にお話を聞いたり、炊き出しの現場を見学させて頂いたり、盛りだくさんの内容でした。

これまで知らなかったことがたくさんわかり、

問題に対しての認識が「なんで解決できないんだろう」から、「だから解決が難しいのか」に変わりました。

驚くようなお話も多々ありました。

 

ここからわかったことをまとめていきます。

 

まず、大きな問題は2つあると思いました。

一つ目は、「ホームレスになっている人は、とても弱い」ということ。

確実なデータではないですが、ホームレスの方のおよそ7割は、精神的あるいは身体的に障害を抱えているのだそうです。統合失調症自閉症などです。ホームレスだから働けないのではなく、働けないからホームレスになっているということです。

二つ目は、生活保護にも受給条件があるということ。

生活保護は、自治体の予算から出費されるそうです。つまり、生活保護者が多ければ多いほどその自治体の予算からの出費が多くなるということ。片っ端から保護というわけにはいかないようです。

そりゃ自治体からすれば、住所不定無職の人を自分の区で保護する理由が無いですから、水際でたらい回しにされてしまうわけです。

 

まず、私が考えていた「生活保護なんで貰わないの?貰えなかったとしても、今の世の中バイトだってたくさんあるし、なんで自活できないの?」という楽観的考えは打ち砕かれました。

 

じゃあ路上生活者は一生路上生活を抜け出すことができないじゃないか!

 

と思いましたが、さすがにそういうわけでもないみたいです。

 

一般的な不動産は住所不定無職の人には家を賃貸してくれません。そうして不動産と契約できない人の受け皿となっているのが“ドヤ”という場所。これは、誰でも入居可能な日雇い労働者のための簡易寮のようなものです。

ここは誰でも入居可能で且つ住まいとしても認められるので、ここに住んでいればだいたい生活保護を受給することができるそうです。

 

おお、じゃあこれで全てのホームレスの人が救われるはずだ!

 

と、そういうわけにもいかないらしく。

 

ドヤは確かに誰でも入居可能で、安価な住まいではあるのですが、なにせ環境が劣悪なことが多いそう。大部屋に20人とか、普通にあるらしい。

僕は今シェアハウスをしていますが、気心知れた人達との共同生活ならまだしも、見知らぬ人達、しかも元路上生活者が多く、中には人間的に問題のある人いる中での共同生活はなかなかのストレスでしょう。

ドヤに住んで生活保護を貰えたは良いものの、その後待っているのは嫌がらせや人間関係のトラブル。さらに一部のドヤは、ヤクザなどと繋がっており、貧困ビジネスの温床になっていることも多いのだとか。もらったお金が、食費や維持費なんかだとかで、どんどん吸い上げられてしまう。

ドヤに一定期間住んだ人は、“褒美”として行政が普通の賃貸を紹介してくれるのだそうで、晴れて生活保護でひとり暮らし、いわば最低限度の生活を送ることができるようになるわけですが、

そこまでドヤに住み続けられる人はあまり多くないのだそう。

結局路上のほうがずっと自由で楽で暮らしやすいということで、逃げ出してしまうんだそうです。

 

だから、路上生活者のほとんどは、一度はドヤに住んだ事があるらしいです。

今は、自分で“選択”して、路上で生活しているということです。

 

ちなみに、一度ドヤから逃げ出し生活保護受給を放棄したと見なされると“失踪廃止”の印を押され、再び生活保護を受給することが難しくなってしまうそうです。

 

ツアーでお話を聞いた「べてぶくろ」さんは、ホームレスの居場所づくりを行う団体ですが、このドヤの問題がホームレス問題の根幹だと考え、“ハウスファースト”の考えのもと、まずひとり暮らしの住まいを提供するところから始めるという試みを行っています。失踪廃止の印がついた方と一緒に役所に赴き、受給の交渉をするこということもやっているみたいです。

 

 

さて、なかなか問題が複雑になってきました。

様々な要因が絡み合って、がんじがらめです。

 

もう一度整理しましょう。

 ①路上生活者の約7割は、何らかの障害を抱えており自活が難しい状況にある。加えて小さい頃から十分な教育を受けられていないなど、そもそも生まれ持った環境が恵まれなかったという人も多い。

②住所不定無職では、基本的には基準を満たせず生活保護は支給されない。なぜなら生活保護は自治体の予算から出されるものであり、受給者が増えるほど財政は圧迫されていくから。できるだけ他の自治体に流そうとする。

③日雇いで稼いでお金を持っていたとしても、路上生活者が不動産と契約し住まいを獲得することは極めて難しい。

④ドヤという日雇い労働者のための寮は、空きがあれば誰でも住むことは可能。そこに住んでいれば生活保護も貰うことができる。

⑤しかしそのドヤの環境は劣悪で、すぐに逃げ出し路上に戻ってしまう人も多い。

⑥一度ドヤから逃げて生活保護を放棄したと見なされると「失踪廃止」の印が押され、再び生活保護を受給したくても難しい。

⑦晴れて路上生活に出戻りする。

 

というのが大きな流れとしてあります。

 

実際に路上生活者の方に話を聞いたり、支援を行う人に話を聞いてみましたが、問題が非常に複雑で、これを解決したらまた新たに問題が生じるといった、何本もの糸が複雑に絡み合っているような状態だと思いました。

 

 

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どうしたら良いんでしょうかね。

ツアーに参加した日は、本当にどうしたらいいのかわかりませんでした。こうして文章を書いている今も、どうしたらいいのか全くわかりません。

生活保護の受給基準を下げればいいのではないかとも思いますが、大阪西成地区を見ればわかるように、とても成功しているとは言えないでしょう。西成地区は保護支給の基準が低く、生活保護受給者が市の人口の1/4を占めています。ですが中には基準が甘いが故、働けるのに不正受給している人も多くいるといいます。

確かに、生活保護や炊き出しなどの民間の支援によってある程度満足な生活を得られるすれば、もう働くなくても良いやと思ってしまう人が出てくることは自然なことだと思います。

池袋でも炊き出しやおにぎりの支給など、なかなか手厚いホームレス支援が行われていますが、「だからホームレスはホームレスのままなんだよ。甘やかすな。」と考えることもできてしまいます。

どうやらただ単に救いの手を差し伸べるだけでは、問題は解決できなさそうです。 

 

本当に自力では生活できない人がいる一方で、怠惰な人やずる賢い人など、路上生活者の中にも多様な人が存在しています。

そうした人を一括りにホームレスと捉えて包括的な対策を行っても、トコロテン式に別の問題が発生して、問題の解決にはなりません。

 

僕はこれにどう関われば良いのでしょうか。

わからない。

こんな現状があると知ってしまって、いまとっても気持ち悪いです。

これまでのように、社会は明るいとニコニコ笑っては生きていけないです。

「日本の幸福度あげたい」ってよく言ってたのですが、そんなふわふわしたこともう絶対言えない。

 

 

ここにきて、ベーシックインカムの可能性を改めて感じたりしています。

 

 

何らかの結論を述べることが難しいので、ブログの綴じ方がわからないですが、これからもっと勉強して、何らか自分なりの落とし所(解決策なのか、自分なりの解釈なのかわかりませんが)をみつけたらまた追記したいと思います。

やりたい型とありたい型

Facebookの保存機能をよく使います。

 

「おっ、面白そう」と思って、今すぐには読めないけど、あとで読むために保存するやつです。

それで保存するのですが、保存しても全然読みません。山のように溜まっていきます。

今日は久しぶりに何も予定がないので、夜更かししています。

Facebookの保存記事を一気読みしていました。

 

ざーーーっと記事を読んでいると、一体何で保存したかわからなくなってしまった記事もあります。

これもその一つ。

dutoit6.com

何の記事だったかもうわからないけど、とても良い記事(というか未来の俺が書いた?)と思うくらいなんか親近感の湧く記事でした。

 

端的に言えば、「「君は何がしたいんだい。目標は何?」と聞かれるの苦しいですよね。幸せでいられればそれでいいんですけど・・・。」というお話。

人には目標を持ってそこに近づいていくことを幸せに感じる、いわば山登りをしているような「やりたい型」、

それと、やりたいことなんてないけどただ幸せでいたいという、自分の持つ幸せ度に対していまどれくらい満たされているかという価値観を大切にする「ありたい型」

この二種類があると述べられています。

後者にとっては、ありたい姿であれるかが重要なのであって、何かやりたいことがあるわけではないということでした。

 

とっても面白かったのですが、一つ自分の考えを付け加えたい。

この記事内では両者を明確に区別し捉えているけど、僕はこのように人間がタイプで別れるとかはないと思っています。つまり、根源的な部分では、みんな同じなのではないかということです。

 

僕は、みんな「ありたい自分」という自分起点の根源欲求があって、そこから自分全体が形成されていくんだと思っています。

どれだけ天性の「やりたいこと」があるように見える人でも、そのもっと根源の部分には「ありたい自分」がいるのではないかと。

 

そこから先の、「ありたい自分」を自分との対話を通じて理解していくことで、自分の「やりたいこと」を見つけられるようになる というのは記事に同意です。

 

 

まずは自分の根源欲求なんだっけ?を見つけることかなあと思いました。

たぶんそれって思っているより美しいものじゃなかったりすることが多い(と思っている)ので、目を背けたり避けたくなるものですが、

それを本当に理解できたとき「自分の幸せ」が近づいてくるんじゃないかな~と思います。

 

とある人材会社にて

就職活動真っ只中です。

就活を通して考えたり聞いたりしたことをまとめておきます。

 

今日はパソナキャリアの人事面接。

正直人材業界はあまり興味がなく、むしろ人をビジネスにする点でやや不信感すらあった。

この会社は、社長面接が比較的すぐあることから、社長にあって色々聞いてみたいと考え、選考を進めている。

 

選考を進めていくうちに、社長に聞かずとも色々わかってくるものもあるなと感じた。

今日聞いた「いいな」と思った話。

 

質疑応答では、どうしたら日本の幸福度があがるかを質問した。

明確な答えはなかったけど、色々ヒントになるようなお話はしてもらえた。

「76才の人を採用している。その人は、紹介先でのクライアントの不満の相談に乗る役割を担っている。その人じゃないとできない仕事。長い人生の中で、その人が多彩なキャリアを歩んできたからこそできる仕事。」

人は何歳でも仕事ができると思う。自分の持てるものを世の中に還元し、その対価を頂くことが働くことだとすれば、むしろ高齢者の方が利のあることも多いだろう。単一な価値観でなく、フラットな見方でその人の価値を見出し、それが活かせる環境に充てられれば理にかなってるし、みんなが有機的に繋がったハッピーで良い社会を作れると思う。

あと、この会社にいたら、

沢山の人との出会いがある

色んな人の人生に関われる

色んな人の価値観に触れることができる

と言っていた。その上で、幸せとは何かをもっと多様な視点を持って考えることができるのかもしれない と思った。

 

 

あと、面接の最後にこんな言葉を頂いた。

「自分のためにやるのではなく、常に人のためにやることを考えると良い。人のためにやっていたほうが、結果自分に還元されるものも大きい。

人は自分に甘いもの。自分のためじゃなく、誰かのために頑張っているほうが最後の最後で頑張れるし、それが自分の成長に繋がる。」と。

 

僕の今の意向を話しの中から汲み取ってそう思ったのかもしれない。

これは理解してるようで意識していなかった考え方かもしれない。一番は人や事にモチベーションを向けられるように頑張ろう。

忘れかけていた気持ちだった。

 

次は社長なので、人間の本質に迫るような質問をぶつけてみたい。

shiawase2.0シンポジウム

久々の投稿。

今日は慶応SDM前野教授が中心になって企画された、幸せについて考えるシンポジウムに参加してきた。

最近目の前の忙しさに流されてゆっくり考えたり見つめ直したりする時間がなくなっていた。今回久しぶりに丸一日こういうシンポジウムに参加して、色んな人の話をきっかけにいろんな事を思い出したり新しく考えたりすることができたので、メモしておく。

 

・幸せも時代によって移り変わっていく?

僕は以前から幸せについて考えていたのだけど、そのきっかけになったのが「日本人の幸福度は、戦後から現在までほとんど変わっていない」というデータ。これを見て、発展によって幸せになっていないのなら今の時代はどこに向かっているのか。まず人間が幸せになる方向に向かうべきではないかと強く感じていた。

今日は一つ新しい発見をした。それは、「幸せ」というものの捉え方も、時代で変遷していっているのではないかということ。

平たく言えば、昔の人の幸せと、今の人の幸せって違うんじゃないかと。

これは共有の時間で隣のおじさんと話していて思ったのだけど、この人が「最近になって自分の信じていた幸せ・価値観とは違った新しいものが目に入るようになってきて、困惑している。自分がやってきたことは本当の幸せじゃなかったのかねえ。」とぼやいていた。

僕はこれを聞いて、ふわっと見方が広がったような感じがした。昔と今では状況が全く異なるし、人間の暮らしもどんどん高次化している。それに伴い人間の幸福も高いところに求められるようになってきているのではないかと。僕は最近、人間の全ての営みを欲で説明することの可能性を探っているのだけど、その理論によれば、欲がどんどん高次化すると同時に、幸せもどんどん高次化しているのではないかということだ。

マズロー欲求階層理論で考えればわかりやすい。一番下の生存欲求が当たり前に満たされるようになって、欲の階層がどんどん上がっていって、今は自己実現の欲レベルがスタンダード化している時代だと思う。

この考え方で言うと、昔生きるのに一生懸命だった時代では、生活が満たされることが出発点で、そこが豪華になることこそ、一般的な幸福だったんじゃないかと。

一方で現代は、生活は基本的には満たされているので、いかにして自己実現を果たしていくか、そういうことがスタンダードな方向性になっている気がする。

というわけで、一概に幸福度が横ばいだと言っても、それは単純な上下の話ではなく、そもそも別の次元の軸になりつつあるんだなと、今日初めて感じた。

 

さて、今回のシンポジウムは「shiawase2.0」新しい幸せのカタチをみんなで考えようということだった。前野先生も、幸せがそもそも変化していっていると感じているのだろう。

地位財的幸せから新しい幸せへと。

「自分で勝ち取るんだ!」というものから「みんなで共創していく」もの

というのが一つ出ていたけど、それもあると思う。「幸せとは」を一概にまとめて語ることはできないけど、みんなで幸せとは を考えていくことは価値があると思った。

 

 

・講演会とは

講演会というものについて考えたこと。

講演会って、内容だけを目的にするのなら、コスパが悪いし行く意味無いと思う。最近だと多くのイベントで書き起こし記事が出ているし、その講演者の考えはたくさんのメディアで記事になっている事が多い。さらに今日は動画配信もされていた。こうしたメディアから、講演会の内容は簡単に入手できるようになったからだ。

 

さて、僕は昔は講演会にもよく参加していたのだけど、最近はあまり参加しなくなっていた。その理由は上記の通りで、講演内容は記事を読んだり動画で見たほうが時間の節約になるから。でも今日ひさしぶりにこういうのに参加して、感じたものがある。

よく、映画はメディアの王様と呼ばれることがある。これは、見る人の自由を奪い、ある意味強制的に二時間とかの間作品を見させる仕組みになっているから。

昨今スマホから莫大な情報を手に入れるようになった私達は、細切れにされた、短時間で得られる情報に慣れきっている。SNSやニュース記事、YouTubeの動画などだ。こうしたコンテンツは膨大な供給量があるため、ちょっとでも飽きられたらすぐに捨てられる。こうしてインスタントな情報にどっぷりと浸かった私達は、どんどん長いコンテンツに対して集中力を向けることが難しくなっていると言われる。

そんな中でも、映画はみっちり2時間、否応なしに客にコンテンツを見させることができる。これが、映画がメディアの王様と呼ばれる所以だ。

さて、つまりは講演会も映画と似た性質を持っている。強制力は弱まるが、一定時間その場に拘束し、聞かせる状態を作り出す。

今日講演会を聞いていて、普段からノンリニア(細切れのコンテンツ)に慣れ親しんでいる僕は、ややじれったいという感情を覚えた。早くもっとおもしろい話をしてくれと。でも講演者はとっても興味がある人達なので、じっくり聞く姿勢を作ってスマホなど触らずに話を聞いていた。

そうしてじっと聞いていると、彼らの言葉の端々から、これまで自分が考えてきたことや昔経験した大切な記憶などが想起されたり、もちろん新しい発見もあるし、そうしたものをゆっくりと自分の中でぐるぐると回して、吸収していくことができた感覚があった。

冒頭にも書いたけど、最近いそがしくてあまりゆっくり考える時間がなかったので、こうして時間を取ってゆっくり考えることができたというのはとても貴重だった。講演でのお話の中から色んな断片を貰い、じっくり時間をとって頭の中を膨らませるということの大切さを感じた。

 

だらだら長くなったが、纏めると、講演とは、話を聞くこと30%、自分で考える時間になること70%くらいの配分で、考えるということに価値があると思う。

 

ただ話を聴いて勉強になって満足していた自分と比べて、成長したなあと感じた瞬間でもあった。

 

なので、これからも忙しいときこそ講演会のような場に足を運んでいこうと思った。

 

大勢での飲み会は、長めの自己紹介以上にはならない

今日も参加してきました。30人近くの参加者がいる飲み会です。

僕は大勢の飲み会が嫌いです。参加しても、基本何も得られないと経験則からわかっています。

でも。これに3000円使うのもったいないよな~と思いつつ、でもやっぱり、もしかしたら、いい出会いとか発見があるんじゃないかと、淡い期待を抱いて、懲りずに参加してしまうわけです。

安い酒と飯に費やしてきた3000円たちを思うと胸が苦しくなります。

さて、そんなぼくですが本日、大学3年にして、ついにこの「大勢飲み会」の真理を掴んだ気がするので、書き残します。

 

まず、大勢の飲み会には、2つの種類があるということを明確にしておきましょう。

一つ目は、同窓会や打ち上げなど、気心知れたグループで行う飲み会。

もう一つが、半数以上が初対面の出会い飲み会。

 

自分がこれから参加するのはこの二種類のうちどちらの飲み会か、ということを理解していないと、期待と事実とのギャップに萎えることになります。

どういうことか。

僕が嫌いで、今回考察を進めていくのが二つ目の飲み会。初めましての人ばかりの飲み会です。

では早速、この飲み会について、箇条書きにて文句を垂れていきます。

 

・2時間3000円で30人とか集まっても、結局話せる人は限られる

・ほぼ初めましてだと、自己紹介から始まり、小グループでも一周したらそこそこ時間がかかる

・基本的に皆、沢山の人と話したいというモチベがあるため、目の前の人に対して心を向けきれない

・そんな環境なので、自分の話を長くしようと思えない

・結果、要点をかいつまんだ圧縮した話になってしまい、聞いてて心に入ってこない

・できるだけ簡潔に話すテンションなので、会話が全く深まらない

・着席だと、移動するのもタイミングを図るし目の前の人に失礼じゃないかという気持ちもあるので、そわそわして話を聞く姿勢が作れない

・最後には、話しきれなかった&もっと皆と話したかった感だけが残る

・あれ、これ、長めの自己紹介しあっただけだな。。完

 

今思いつく限りの不満を述べてみました。

さて、今日参加したものは、僕の信頼できるコミュニティの交流会でした。間違いなくいい人はたくさんいたのでしょうが、結果としては、また飲みたいと思える人には出会えなかった。

そうして思ったのは、どんなにいい人が集まっていても、このスタイルの飲み会では何かを発見したり、議論することはやはり難しいということです。だいたい自己紹介の範囲の会話に終止してしまいます。

 

ただ注意すべきは、これにはそもそも自分のスタンスが間違っている可能性もあるということです。

どういうことかというと、場の提供者が想定する価値と、自分の期待が合っていなかったら、そりゃあ満足度高くはならないよね、ということです。

今日でいうと僕は、今日は深い話をしたい、新しい発見を得たいという感じの気持ちで参戦したわけなのですが、

基本的にこのスタンスの飲み会は、新しい出会いを提供するのであって、二歩目まで提供するものではありません。参加者はここでの出会いが次につながっていけばOK!というくらいの気持ちで参加すべきで、深い話は期待しないほうがいいと思いました。

で、場を作る人は、飲み会のメンツと時間と場を踏まえた上で、提供価値を意識して、会を作るべきだと僕は思います。たぶん、初対面が多い場であるなら、交流を最大化できるような会にするのがベスト。

そこの目的がブレると、よくわからないもやっとした会になってしまいます。

 

というわけで、はい。最後に、これが一番言いたいことです。

そこまで掘っていくと、気づきます。

これはもはや飲み会である必要は無い。軽食とソフドリの立食交流会で十分だ。 と。

 

僕なんかは少し飲むと顔が赤くなるので初対面の人にいい印象を与えないし、結局自己紹介みたいな話が多くなるので酔いながら話す意味もない。

いいことがない!

 

というわけで、夕方ノンアルで立食交流会をして、二次会、三次会で飲みに行って仲を深めていくのが、理想の初対面交流会だと考えます!以上。

 

酔った勢いで書き綴ってしまいました。終

モチベーションの変遷に関して

ふと、自分が今やっていることに対するモチベーションがなんなのかということは常に意識して理解しておいたほうがいいなと思った。

つまり、モチベーションって意外と気づかないうちに萎えてたり次の別のものに置き換わっていることがあるんじゃないかなあと。

 

例えば、ある会社でインターンすることになったとして、初めはその会社の会社意識やビジョンに共感して参画したんだけど、やっているうちにそのモチベは色あせて、「自分の成長」が一番のモチベに変わっていたり、はたまた気づかないうちに「自分の世界を広げる」という方向に向かっていたり、時期によっては「就活のため」になっていたり、意識してなかったけど実は「今好きなあの子のため」に頑張っていたり、

時間の経過と環境の変化によって、モチベーションって意外にころころ変わるんじゃないかなあと思った次第です。

 

そしてその変化に常に敏感になって、今の自分をしっかり理解しておくのが絶対必要だと思います。

いつのまにか自分のモチベーションがこれまでと別のものに変わっていたとして、それに気づいていなかった場合、言動と行動が微妙に噛み合わなくなっていくと思います。

他者から見ても、何かはっきりしないなあという印象を与えるだろうし、それ以上に自分自信を理解していないまま、違和感ともやもやだけが膨らんで、苦しくなってしまうと思います。

 

そうなるよりは、ころころモチベーションが変わる自分を認めて受け入れて、まっすぐに自分を理解しようとする姿勢を持つことが大切なんじゃないかなあと思いました。

 

以上。

 

 

若さ溢れる斬新なアイデアを!っていうけれど。

これ、大学生なら一度は言われたことのあるセリフではないでしょうか?

僕もこの期待に何度苦しめられたかわかりません。

「よっしゃ!がんば................んー、いや、なんか、無理!出ない!」

とその都度感じていて、自分なりにどうしたらいいのか考えて、ここ半年くらいはインプット重視の生活を送ってきたのですが、

『アイデアのつくり方』ージェームズ・W・ヤング著

という、1960年に刊行されて以来現在でも色褪せない名著をただいま読みまして、自分が感覚的に感じていたことがドンピシャリで言語化されていて感動したので、整理も兼ねてまとめます。

 

「アイデアとは、既存の要素の組み合わせ以外の何ものでもない」

 

この一文を見たことがあるという方は多くいらっしゃると思いますが、

イデアとは、何もないところから突如生まれるものでなく、”ある一定の明確な方法”に従って生まれるものだと述べられています。この方法が「確かに!」の嵐で目から鱗もんだったので、

本著で述べられている「アイデアを生むための5つのステップ」を簡単にご紹介。

一、情報集め

実はこのステップが一番大切なのに、多くの人はこれを飛ばしてしまいがちである。

何もないところからアイデアは生まれない。アイデアの源泉となる情報を集める必要がある。情報には「特殊情報」と「一般情報」の2つがある。特殊情報とは、特定の分野(アイデアを出したい領域)に関する情報のことで、これは徹底的に掘り下げて集めていく必要がある。一般情報とは、この世の様々な出来事についての情報のことである。人生を通して収集していく類の情報だ。

蓄積されたこの二種類の知識を組み合わせることが、すなわちアイデアを作るということである。

二、情報の咀嚼

次は、これらの情報を咀嚼する段階である。情報に意味を付加していく。ここで大切なのは、集めた個々の情報を正面から眺めるのでなく、様々な角度からこねくり回して、パズルのように組み合わせを考え、それを限界までやり抜くことだ。ここではまだアイデアは生まれなくてもよい。

三、資料の熟成

そこまで考え抜いたら、一度それらを完全に意識の外に放棄し、全く別の趣味や創作活動に心を移す。

四、舞い降りる瞬間

イデアが訪れる瞬間というのは、アイデアを探し求める心の緊張を解いて、休息とくつろぎのひとときを過ごしているときなのである。思いがけないタイミングで、そのときは訪れる。

五、アイデアのチェック

最後に、そうして生まれたアイデアが陽の目を見るために、現実の過酷な条件や世知辛さといったものに適合させるべく、忍耐強くアイデアを鍛えていくことが必要がある。良いアイデアというのは自分で成長する性質を持っているので、多くの人の目に触れさせ、可能性を見出してもらっていく。

 

以上がアイデアを生むステップになります。

誰しも一度はこのようなステップを踏んだ経験があるのではないでしょうか?出したいアイデアでレベル感の大小はありますが、基本全ての場合でこれが当てはまる気がします。

 

さて、冒頭に戻ります。

「若さ溢れる斬新なアイデアを!」という言葉への違和感が、もののみごとに本著で言語化されていて、いたく感動したわけです。

つまり、これまで僕は「若さ」という魅惑の響きを持つ言葉に乗せられて、自分が何か特別な力を持っていると錯覚し、無謀にも挑戦心を掻き立てられ、勇んでアイデアを考えていたのですが、一番大切な「資料集め」のステップをぶっ飛ばしてたじゃん!ということです。

学生たちの企画立案コンテストなんかだと、知識量にそこまで大差が無いため、結局ひらめき勝負になり、頭の柔らかい人が勝つことになるのですが、そうして自信をつけたとしても、自分より一回りも長く生きている人と比べたら、自分の持っている手札が圧倒的に少ないということは一目瞭然で、いくつになっても毎日コツコツ情報収集しているような人にはなかなか勝つことは難しいし、でもそういう人達をオオ!て言わせられるアイデアが出せないと意味は無いわけで・・

若いうちから成功するのは難しい。並大抵の努力じゃ無理!ということ改めて認識しつつ、そこで初めて「若さ」という当事者性、視点という価値を意識して、勝てる分野を探していくことなのかなあと思います。

 

そんなわけで、もっともっと勉強だなあと気持ちを新たにしたのでした。

 

PS.とはいいつつも、集めた知識をマイニングする訓練も同時に必要だと思い、でも自分の限られた知識を十分に発揮できる環境なんてあるのかな。と悶々としていたタイミングで、

まさにその「若さ」を「特殊知識」として発揮できる環境を頂きまして、これならもしかして価値を出せそうだ!という実感をもちながら、日々修行に励んでいるこの頃です。