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24時間テレビを感動ポルノだとか言って批判する雰囲気が好きじゃない

日常

こんばんは。

昨日は毎年恒例の24時間テレビがありましたね。

最近はてっきりテレビを観なくなってしまってほとんど観ていないのですが、ちょっと思うところがあったので投稿します。

 

24時間テレビが終わってから、SNSやWeb記事で、この番組を批判する意見を多く目にしています。

blogos.com

こんな感じで。どうやら24時間テレビの視聴者を感動させるような番組の構成を、感動ポルノと呼んで批判しているようです。

確かに自分も過去に家族と見ていたときは、「感動させにきてる感じが嫌だよね。」という話はよくしていました。

記事に書かれている内容も、ライターさんが書いている目線から言えばその通りですし、納得させられる部分も多くあります。

でも、そもそもその目線がなんか残念だなあと思いまして。

要するに「数字のために障がい者の人達をコンテンツとして扱っている」という批判だと思うのですが、まあ確かにその視点はもっともなことで、障害者の方を無理やり富士山に登らせたとか、そんな話も目にしました。障がい者の方に無理をさせていないか?と言われると、ちょっと微妙なところもあると思います。

 

でも、

そんな批判をしてしまったら、本当に全て台無しになってしまうじゃあないか!と思うわけです。

僕は、大人って自分が想像しているよりもずっと優秀だし深く考えてるし素晴らしい人がたくさんいると思っています。表面上の情報やネット上のコメントに流されて、浅はかに批判的な目で物事を見てしまうことほど愚かなことはないと思います。

今回の件もそうで、24時間テレビを作っている人たちは、単に数字を稼ぎたいとかそんなことでこの番組を作ってるわけじゃないと思います。もっと、局をかけて実現したい社会に向かって番組を作っていると思います。

事実、実は父の職場が24時間テレビのドキュメンタリーのひとつとして取材されたことがあるのですが、そこに取材に来ていた方々はみないい人達で、単に視聴者の心をつかむようなものでなく、こちらが伝えてほしい要素をしっかりと盛り込んで作ってくれていました。

きっと他の取材先だって、そうした議論を重ねて、同意したうえでそれなりの覚悟を持って出演を決めていると思います。安請け合いは絶対にしていない。

そうして作られた24時間テレビなんだと思うんです。みんなが思いをもって、伝えたい事があって、作られていると思うんです。

それを、批判的な目でしか見られないのって、悲しくないですか? 

 

上の記事で、ひとつだけどうしても無責任な批判だなあと思うのが、この箇所。

別に謝罪はしなくていい。同局の同番組関係者はこれまでの番組のあり方を総括し、敬虔な反省を持つとともに、自己批判を行うべきだろう。喝だ。大リニューアルが行われない限り、私は一生見ない。まあ、私が死ぬまでには、同番組は支持されず、終了していることを祈る。そして、「24時間テレビ」なんていうイベントがなくても、普通に障がいや貧困を乗り越えた愛に満ちた世界が実現することを祈る。

この最後の一文。「24時間テレビなんていうイベントがなくても、普通に障がいや貧困を乗り越えた愛に満ちた世界が実現することを祈る。」

これ。じゃあどうやったら普通に障がいや貧困を乗り越えた世界が実現するのでしょうか。

僕は、テレビのようなものを通して発信して、それをたくさんの人が目にして何か考えるきっかけを作っていくことが、障がいのない社会を実現する第一歩だと思っています。

社会問題を扱うツアーを企画する会社 リディラバの代表安部さんは、「一番の社会問題は、無関心なことだ。」と言っています。

僕もそう思います。みんなが社会問題に少しずつ関心を持つことができれば、社会は少しずつ変わっていくと信じています。

以前、身体障がい者のことを伝える「i-link-you」という団体の皆さんや社会起業家の方々と一緒に、「身体障害者が普通に暮らせる社会を実現するにはどうしたらいいのか」ということを議論したことがあります。

そのとき自分の中で辿り着いた解決策が、「ブームを作る」ということです。

結局、大企業や行政が動かないと、社会は変わっていきません。じゃあどうしたらそれを動かすことができるのか。慈善の気持ちだけでは動きません。何かそれをやって返ってくるメリットがないと動きません。じゃあメリットを作ってやればいい。それが、ブームを作るというところに繋がります。つまり、会社で障がい者が暮らしやすい社会の実現に積極的に取り組んでいれば、その会社が良い会社として評価されるような、そんな雰囲気が生まれればいいと思うのです。

これは女性の社会進出とか、最近ではセクシャルマイノリティの問題とかも同じ構造かなと思っていて、いち早く女性の雇用に取り組んだインテルなどはソーシャルグッドな企業として評価されるようになったし、最近でもマイクロソフトなどが積極的にセクシャルマイノリティの社員に対する環境整備を行っています。

このような動きが評価されるのは、人々がその問題に関心を持っているからです。「人々の関心」という利益への種があれば、企業はそれに対してアクションを起こします。

そうやって、人々の関心から、大きなところが動かされて、社会が良くなっていくのではないでしょうか。

話を戻すと、障がい者についてもこれと同じことが言えると思っていて、今は正直なところ、障がい者の方々の問題に対する関心が低いのが現状だと思います。女性やセクシャルマイノリティについての議論はよく目にしますが、障がい者に関する議論はそれと比べて少ないと感じます。もっとこの問題にみんなが関心を持ってほしい。

そういったところに人々が関心を持つようにするために、24時間テレビのようなテレビの力はとても重要なのではないかと思うのです。長くなりましたが、これが言いたいことです。

感動ポルノだとか言って批判するのは簡単ですが、じゃあどうやって障がいのない社会を実現していくのか。そういうことまでじっくり考えたうえで、批判するかどうか判断したほうが良いのではと思います。

矢面に立って、テレビに出演した障がい者の方々のことを、僕は本当に勇気があるし素晴らしいなと思います。

どうかこのような人達にとって一番いい形で、24時間テレビという番組が消費されることを願います。

人生初お神輿担ぎin亀戸天神社例大祭

イベント

昨日は人生で初めてのお神輿担ぎに行って参りました。

iLEAPで一緒だった江戸っ子ゆうさんに誘ってもらい、ふらっと参加しました。

初めはみんなの写真を撮ろうと思っていただけだったのに、衣装を貸してもらって、急遽担がせてもらうことに!

 

楽しかったなあ。

身長が高いがゆえ、中腰で担がなくてはならず、全身にきました。。肩と太ももが痛い。

すごくいい夏の思い出になりました。

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読書会にて

日常

【秦と竹田家の読書会】

と題して、ルームメイト竹田と読書会を始めました。

目的としては、
・短時間で多くの本の知識を共有できる機会
・普通にしていたらまず読むことのないだろう本との出会い
・自分の中で完結していた解釈から、外の視点が入って新しい発見を得ること
・友達づくり
てな感じです。

今日は第二回でした。
紹介された本はこんな感じ
・・・
「暇と退屈の倫理学國分功一郎
「暗号解読」サイモン・シン
「からっぽ」アンディ・プティコム
「重力ピエロ」伊坂幸太郎
「普通がいいという病」泉谷閑示
「黒猫の遊歩あるいは美学講義」森晶麿
「夜と霧」ビクトール・E・フランクル
・・・

八時から始めて、あっという間に時間は過ぎ、気づいたら終電の時間になっていました。アカデミックな学びはもちろんのこと、人生について語り合う時間もあったりして、とてもいい感じの会になっています笑
飲み会でわちゃわちゃやるのもいいけど、こうしてじっくりと様々なテーマについて語り合うのも楽しいなぁと思います。

本を媒介として色々話をしていると、その人の性格や思想、興味関心が見えてきて、自然とその人に対する理解が深まっていきます。相手のことを知って仲良くなるアプローチとしては、凄く良いなあと思いました。そこでできた繋がりは、普通の飲み会とかでできるものよりも強固なもので、また話したい、何かして遊びたいと思う気持ちが強い気がします。

 

さて、今日は色々なことを感じたのですが、もう明け方に近いので笑、特に印象が強かったことを書き残しておきます。

 

*場を良くするために言いたいのか、相手のために言いたいのか、単に自分が言いたいのか

読書会は、6~8人で開催されるので、一人あたりが話す時間が当然ながら少なくなります。ふっと考えが浮かんで話そうと思っても、先に他の人が話し始めたり、一対一で話している時のように自由に話すことはできません。これはもどかしいことなのですが、意外に結構いい効果もあるなあと感じます。というのも、ふっと自分が思い浮かんで言おうと思ったことについて、一度自分の中に飲み込んで吟味することができるからです。言いたいことを飲み込んだまま、さらに会話を聞いていくと、「あ、さっきのタイミングであれ言うのはちょっとずれてたな。」と思うことが結構あったりします。

そういうときに、あれ、これって本当に相手のためを思って言おうと思ったことだったのかな? 実は自分が言って満足したいために言おうとしたんじゃないかな。 と思ったりするわけです。

人と会話するとき、特に悩み相談だったり、もやもやしていることを聞くときには、第一に相手のためを思って発言をしたほうが良いと思うのですが、どうしても我が出てきてしまうことがあると思います。自分の体験からこうしたほうが良いよとか言うのって、たぶん掘り下げると自己満になっている気がします。

その人の本当の意図はどういうことで、何をいうのが適切なのかということを、じっくり考えて、バランス感覚を保って話をしたいなあと思いました。

読書会の内容とは関係ないけど、そんなことを考えました。

「他力」の危なさ

仏教

日本は無宗教の国とも言われますが、一応は仏教の信仰が昔からある国です。

その仏教の中にもたくさんの宗派がありますが、中でも法然から親鸞へと受け継がれた浄土真宗は、特に民衆を救うことを目的として、教えが説かれています。

法然は、ただ一心に「南無阿弥陀仏阿弥陀仏に帰依します)」と念仏を唱えれば救われるのだと、確信を持って説きました。末法思想が蔓延していた当時の日本で、この教えが大流行することになります。ですがこれはもともとあった、修行をベースとした宗派の考え方を否定するものとも捉えられることがあり、しばし弾圧の的となりました。

では、どうして法然親鸞は、このようにこれまでの仏教の潮流からやや外れた教えを、確信を持って説くことができたのでしょうか。

これには、浄土真宗の根本的な考え方である、「他力」という概念が関係しています。

現代でも他力本願などと言いますね。でもここでの意味は、他人任せということだと思います。本当の他力の意味は、これとは少し違います。

「他力」とは、自分だけの力ではどうすることもできないのだと悟り、もっとずっとずっと大きな力によって自分が生かされているのだと考えること、その大きな力のことをいいます。

自分の力だけで生きようとするのではなく、大きな他力の存在を感じ、それに任せるということです。

「自分の力だけではどうすることもできないが、なるようにしかならない」

ということを受け入れると、不思議な安心感が生まれ、なににも動じなくなります。

 

つまり、法然親鸞が主張した、ただ念仏を唱えればよいということの意味は、これまで身に着けてきた知識や感覚を捨て、ただ無心に阿弥陀仏に任せるということなのだと思います。

 

さて、僕はこれを自分なりに噛み砕いて意識しながら生活しているのですが、その中で、ちょっと「あれ、これでいいのかな?」と思ったことがあったので書き残します。

僕は、なにか素敵な機会を頂いた時や、大きな選択をするとき、「そうしろという働きかけなのだな」と思い、できるだけチャンスに飛びついてみることを心がけています。

また、失敗をしてしまった時や辛い出来事があった時には、「なるようにしかならないので、これは失敗すべき失敗だったのかもしれない」と思い、次に気持ちを向けるようにしています。

これが他力を感じながら生きることなのかなあと思っているのですが、、。

先日、ある出来事がありました。

自分がかなり大きな失敗をしてしまって、ある大きな機会が失われてしまうことになってしまいました。またかなり多くの人に迷惑をかけてしまいました。

かなり落ち込んで反省をしたのですが、そこで他力の考え方を思って、「今回の機会は見逃す運命で、もっと他の方向で進んだほうがいいということなのかもしれない」ということを思いつきました。

そうして今は立ち直って前を向くことができているのですが、、果たしてこれでよかったのだろうかと思うわけです。

当然失敗に対する反省はしているのですが、その機会が失われたこと、さらにいうとその機会が失われたことによって閉ざされてしまったかもしれない道への執着が、殆ど無いのです。

また、世の中自分だけで生きているわけではないので、自分の人生だけが他力によって良い方向に向かっていればよいというわけではないと思います。

「なるようにしかならない」って自分は思えるけど、他人のことまで「なるようにしかならないから大丈夫だ」とはそう簡単には思えないのです。

そういうわけで、「あれ、これって本当にいいんだっけ?」とわからなくなってしまいました。

この出来事は、自分の中で育てていた「他力」の考えを揺るがすものでした。

んー、どう考えたら良いのでしょうか。わからん。

まだ答えが見えていないので、この失敗に関しては、心に残しておいて、時間が経ってからまた考えてみよう。

逢仏殺仏逢祖殺祖

仏教 日常

ちょっと前に、自分のFacebookにこんな投稿をしていました。

【平和な日常】

今日はよく晴れて気持ちのいい天気だったので、気分転換に大学の庭園で寝そべって読書をすることに。
たまにはこういうのもいいなーといい気分で、日が落ちた後は図書館に戻って勉強。
お腹が空き始めた頃に、今日は何食べようかなーと考えながらふらふら帰る、いつも通りの1日。になるはずが…

帰ろうとしたら、あれ? 鍵がない!
ポッケに入れていたチャリ鍵と家の鍵、どっちもない…!
うわー、絶対庭園に寝そべった時にまとめて落としたわーと思い、警備員さんに頼んで閉園後の庭園に戻りライトで照らしながら探すも見つからず。
落し物センターに聞いても届いていない。

最悪だーと思いつつ、幸いルームシェアをしているので、ひとまず同居人の竹田に家の鍵をなくしたことを伝えると、「あー、ドアに刺さってたからポストに入れといたよ」と一言。
おい先言ってくれよ! と思ったけど、でもまぁ失くしてなくてよかったとホッと一息。。

でもチャリ鍵は未だ見つからず。
どのみち探さなきゃなーと思いながら、今日のところは諦めて帰ることに。
一応駐輪場の自転車を見に行ってみると、そこには「ずっと待っていました…」と言わんばかりに、自転車にひっそりと鍵が刺さっていました。

なんて日だ!

 

 このとき、自分の思い込みって本当に怖いなあと学んだのですが、

今日読んだ禅の本にこんなことが書かれていました。

 

◯逢仏殺仏逢祖殺祖

"ある日、若い男やもめが家に帰ると、家が焼け落ちており、五歳になる子供が行方不明になっていた。焼け落ちた家のそばには黒焦げになった子供の死体があった。男はそれを自分の息子だと思い、嘆き悲しみ、丁寧に供養した。しかしその息子は火に焼けて死んだのではなかった。その子は山賊にさらわれていたのだが、ある夜逃げ出して父のもとに戻ってきた。息子は戸を叩き、「あなたの息子が戻りました。」といったが、父は「息子は死んだのだ。」と自分が信じていることをあくまで言い張り、戸を開けようとしなかった。結局、子供はそこを立ち去らねばならなかった。こうして哀れな父親は、愛する息子を永久に失ってしまった。(百喩経)”

この喩えは、何かが絶対の真理であると信じて固執しているときには、新しい考えを受け入れることができないのだということを教えています。たとえ真理が戸を叩いても、戸を開けてなかに入れようとはしないのです。
人は、真理が入ってこれるように、知識へのとらわれから自由になり、こころの戸を開けることができるよう努めなければなりません。

臨済禅師はかつてこう言いました。
「仏にあったら仏を殺せ。祖師にあったら祖師を殺せ。」と。

概念に固執してそれを真実そのものと見なすなら、我々は真実を失います。ですから、真実が姿を現すには、真実についての概念を「殺す」必要があるのです。仏を殺すことが、仏を見るための唯一の方法なのです。我々が仏に関して持っているすべての概念は、仏そのものを見ることを妨げることになるのです。
単なる知識は目覚めにとって最大の障害になります。これを「所知障」といいます。

 ーティク・ナット・ハン著「禅への鍵」

んー、なるほど。

身近なところでは、ちょっとした思い込みって怖いよねって話なのですが、

もっと話を広げると、常にオープンな心でないと、何も新しい発見はできないよねってことだと思います。

本で読んだ知識とか、偉い人から聞いた話って、それが絶対的に正しいことのように思えます。わかったような気になります。そういった知識って、手放すのがとても難しい。何かにつけて、それを土台に思考を進めてしまいがちです。

でも、 その状態では自分で本当の真実を得ることはできない。角砂糖がすっと溶けていくように、ある事象が自分の体に溶けて染み渡っていくような感覚は得られません。

結局、「うわ、悟ったわ」という体験って、人に教えられて得られるものではなくて、自分の中で思いがけない瞬間にやってくるものなんだと思います。

そういった体験を受け入れるためにも、知識ばかりに傾倒することなく、知識を持ったうえで、自分の感覚を大切にしていくことが大事なんだと思いました。

守破離」ですね。

最近、もやもやしていることの答えを本の中に求めたり、人と話すときに本から得た知識をそのまま語ったりすることが多かったので、すごくはっとさせられる体験でした。

 

ブログをはじめました

日常

こんにちは。

はたです。

 

最近、あらゆる考えが心に浮かんでは意識から外れて消えていくような、なにかせっかく育てた大切なものをまんまと手放していってしまっているような、そんな感覚がありました。

そこで、ここらで自分の人生の軌跡として、考えたことを書き残しておく場を作ることにしました。

書く意欲を保てそうな媒体として、あえてアナログな日記ではなく、Webを選びました。読んでもらって共感を得たり、意見交換をすることがないと、自分よがりの偏ったものになる気がしたからです。

 

というわけで、これからちょくちょく、これまでに考えていたことも含めて、文章を書いて行こうと思います。

一年後に過去の記事を読んで、「去年の自分  若いな〜可愛いな〜」と、愛おしく思えることが出来ていれば満足です。笑

 

では。