退屈 の考察を通して生き方に関して新たな示唆を得た

急に思いついたのでメモ

 

この前暇と退屈の倫理学という本を読みました。

めちゃくちゃおもしろいなー、読み応えあったぜ・・と思いつつも、

あれ、どうも退屈というものが自分の中で落ちてこない。

え、みんなそんな退屈してんのかな?俺は全然退屈してないけど。

 

と、そんな気持ちでした。

 

だったのですが、ふと思いついたことがあります。今日は本を読んだ感想と、そこから新しく感じたことについて書き残しておきます。

 

まず本の感想。読んですぐは、自分は退屈してない感覚があって、腹落ちしない感があったのですが、やっぱり自分も本にある通り、人間として退屈というものを感じていることに気がつきました。

そしていま退屈じゃないと感じていたのは、無意識に退屈の状態を自覚し、そうならないように行動しているからだということに気がつきました。

 

ところで一旦この退屈というものについて説明しておきます。

それは「刺激がない状態」です。無風。 

 

さて、僕がさっきふと思いついたこと。これが自分の中で結構大きな発見だったんです。それは何か。

僕は、人間の目指すべきは「幸せ」だと思っていました。

どんな状況であれ、その人が幸せだと感じられていれば、それで良いと。

これからの未来、色んなパラダイムシフトが起こるだろうけど、まず世界が目指すべきは個人の幸福であり、そこは絶対に踏み外してはいけないところだと思っていました。

その人が幸せなら万事OK!そんなふうにさえ思っていました。

 

しかし、気づきました。

 

幸福=退屈の解消 ではないということに。

 

幸せという概念と、退屈という概念は全く別次元に存在しています。

そしてどちらか一方を満たしても、もう一方も満たされない限り、本当の理想状態にはならないのではないでしょうか。

つまり、周りから見ても自分から見ても「本当に幸せだなぁ」と思っている人でも、そういう状態がずっと続くと、「退屈」という厄介な感情が頭をもたげてくるんじゃないかと。「退屈」な状態では「幸せ」だとは言えません。

同様に、「退屈」を解消すれば幸せになるかといえば、そうともいえない気がします。

退屈を解消するには刺激が必要です。でもその刺激というのは、感情的なプラスマイナスは関係がなく、とにかく刺激なのです。

それゆえ人は、自らシビアな状況を望んだりします。

 

なんかいろいろわかってきました。

 

人が同じところに安住せず、向上心を持って高みを目指したり、リスクのあるチャレンジをしようとするのも、「退屈」を解消するためなのではないでしょうか。

 

僕は結構、幸せ とか、生きる意味 とか、社会的価値 とかをベースに社会を捉えがちだったので、何かにつけて「それどこに向かってるの?」とか、「何モチベでやってんの?」とか、「やってて何が嬉しいの?」とか思ってしまうたちだったのですが、

 

この「退屈」という測りで捉えてみると、上に書いたようなことでも結構腑に落ちるなぁと。

 

全ての行動理由を深掘りした先、人間の全ての行動原理はこの「退屈」という感情を解消したいという動機から始まっているような気がします。

 

これ、自分の感情でも同じで、自ら進んで厳しい選択をしたり、できる限り上を目指したいと思ったりするのですが、

これも意識せずに退屈というものを避けようとする気持ちの表れなのかもしれません。

 

ふーむ。

 

では人類が目指すべきは、刺激を受けやすい社会 ということになるのでしょうか?

 

んー、なんか違う気もする笑

 

幸せと退屈回避のバランスなんですかねー。うむ。

 

この退屈という感情とどう付き合っていくのかという問に対する絶対的な答えは存在せず、各々が模索していくものなんだろうと思います。

 

まあ僕は、最後に「いい人生であった」といえるような人生を送りたいですね。

 

 

これ以上続けると無限にだらだら書いてしまいそうなので、今日はこれくらいで。

 

また書きたくなったら追記します。(←追記しました)

 

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 ところで、もしかしたらお釈迦様は、この退屈という感情を

「人間が逃れることのできない無限の苦しみ」と呼んでいたのかもしれない と思いました。

そうなると、やはり人類の目指すべきは “涅槃”・・・!!!

僕には涅槃がどういうものかわからないし、今の世の中でそこを目指すのはより一層難しいとは思いますが、

この仏教の教えから、これからの社会を良くしていくヒントになるようなエッセンスを抽出できないものですかね。

 

星野リゾート 星野氏のご講演を聞いて

10月8.9日で参加した信州若者1000人会議2016 で、星野リゾート星野社長のご講演がありました。

色々面白かったので書きます。

 

まず、端的に言って、星野さんゴリゴリの頑固おやじでした。

 

お話のメッセージは大きく分けて3つ。

・競争すべし

・官民の関係性について

・いかに健全で良い社会を作っていくか

でした。

 

順番に説明していきます。

まず一つ目、これが一番のキーメッセージでした。「もっと競争すべし」。

企業たるもの競争なしでは良い社会などできない。競争にこそ面白みがあるし、競争してこそ企業が成長する。ということでした。

そして二つ目のメッセージにも繋がるのですが、行政はそういった健全な競争環境を作るために税金を使うべきだと。現行の行政は、とにかく民間がすべきことに介入し過ぎで、かれらが税金をじゃぶじゃぶつぎ込むことによって逆に民間を圧迫しているということに全く気づいていない。最悪だと言っていました。

この境界線はとてもむずかしいと思いました。いかにして民間を活発にするか。それがうまくいかないから行政がやってしまおうという発想になっている、つまり前述の逆の流れになっているのかもしれません。

一つ塩尻の山田さんがおっしゃっていてしっくり来たのがこれ。

「行政の仕事は名前をつけることなんだよ。」

これどういうことかというと、行政の仕事は、民間の事業を横で見て繋いでいくことなのだということです。一歩引いて外から全体を見て、どうしたら社会に良いインパクトを与えられるか、それを常に考えてやっていくことが行政の役割なんだと言っていました。

・・・かっこいい。さすがです。

 

少し話がそれました。星野さんの話は続きます。

最後はいかにして良い社会を作っていくかということです。星野さんは、企業のCSR活動を痛烈に批判しています。自分の事業と全く関係のないCSRは、やることが目的で、やった事実に価値があってそれ以上ではないので、不況時には景気削減の対象になるし、やったことに対して全く責任を持っていないということでした。つまり結果はどうでもいいというわけですね。

そしてこれからの新しい企業の社会貢献のあり方として、CSVがあるという話をされていました。CSVとは(Creating Shered Value)の略で、企業の利益追求の方向性の中に社会貢献も含まれているということです。以前何処かで書きましたが、例えば企業がLGBTの従業員が働きやすいように環境を整えることによって、性的マイノリティのためにもなるし、企業もとしても多様性を受け入れることによりクリエイティブなアウトプットがだせるようになる とかそんな感じです。

また、面白かったのが、もっと規制緩和してAirbnbとかどんどんやったほうが良い という話。星野リゾートとはおそらく競合になるのに、星野さんはそれを肯定します。世界の流れに逆らって、既得権益を守るため規制を強くし入ってこれないようにするというのはまったくフェアじゃないし、そんなことやってたら世界から見放されてしまうと。

そういうわけで、競争は大いにすべきで、厳しいかもしれないけど世界の流れの中で原を決めて戦っていくしかないのだということを強調されていました。

 

最後に、一番おもしろかった質疑応答について。

集まった若者たちは、星野さんのお話に納得がいかない人が多かったらしく、質疑応答では学生たちが立て続けに星野さんの意見に反対の意を表明していました。

だいたい学生たちの主張はこんな感じ。

「競争する社会が人間にとって幸せなのか?人類が目指す方向は、人々の幸せなのではないか」

ということでした。星野さんの主張はやや勝者の思想を感じさせる部分があり、一貫して「健全な環境さえ整えれば、あとは競争するべし。負けても何度も諦めず戦うべし。」という感じでした。

まあその通りなのかなあとも思うしそのベースの中で自分が幸せに生きられる位置を自分で探していくことが競争社会の中で生きるということなのかなあと思ったのですが、

意見を表明した若者たちはこの星野さんの主張に真っ向対立。

自分的にはこれが結構驚きで、自分も社会は人々が幸せになるためにあると思っていて、幸せってなんだろう。とか、社会はどうあるべきなんだろう。なんてことを大学の前半はずっと考えていたのですが、なかなかはっきりとこういう考えを主張する人は少ないと思っていました。

でも今回集まった人達は結構そういう考えを持っていて、なんというか、初めて?いい意味でゆとり世代を感じることができました。

そんな感じで学生は果敢に挑んでいったのですが、星野さんは、「最近こういうこと言うやつ多いんだよな・・」とぼそっとぼやきながら、質問に回答するというか、自分の主張を語るという感じで、次々と質問をした学生たちに消化不良感を残して回していきます。

結局最後までその調子で自分の主張を話し続けて質疑応答終了。質疑応答と言うか、ほとんど講演の延長戦という感じでした。

いや~、星野さん、頑固でした。

 

最後に自分の考えを。

星野さんの言う、競争する社会というのは、そのとおりだなと思うのですが、自分が思うのは、良い競争と良くない競争があるなということです。

一番大切なのは、その企業・業界が解決したいと思っている社会課題を常に先に見据えて事業を行っていくということだと思っています。それがあって、企業間で互いに切磋琢磨できるような関係の競争はとてもいいと思います。

良くないのは、その方向性を見失い、競争に勝つことだけが目的になってしまうケース。この競争の先には、たぶん自分たちの利益しか見据えられていないような気がします。

良い競争でないと、良い社会はつくれないような気がします。

 

余談ですが、最後に自分がちょっと思っていることを。

僕は昔から、同じような企業がいくつもある意味がわかりませんでした。なんで同じことやっているのにいくつも会社が必要なのだろうか。消費者目線に立って、「解決すべき課題に対して必要なこと」で考えると、やることは一つで、複数の会社が同じことをやる必要はないと思います。そうではなく、解決すべき課題に対して必要なことに対して、そこで競争をするのではなく、共創していけばいいじゃないかと。

向かう方向が同じなら、みんなで協力してやっていけばいいじゃないかと、思ったりするわけです。

まぁお花畑とか言われそうですけど。

解決すべき課題があって、それに対するソリューションを考えるのであれば、我先にと競い合うのでなく、みんなで協力していくのが理想なんじゃないかなぁと、東北の復興支援をしていて、色んな団体の事情を見たときに特にそう思った経験があります。

 

長くなりました。

以上、星野さんの講演から、とても色々なことを考えるきっかけを頂きました。

 

 

久しぶりの投稿 信州若者会議に行ってきた

久しぶりの投稿です。

忙しくなると更新しなくなる自分、苦しいですね。ちゃんと時間を見つけてコツコツと更新していきたいものです。

今日は久しぶりにゆっくりブログを書く時間ができたので、何個か書いておこうと思います。

9月、かなり色々なことがありました。それらを一個一個書きたい気持ちはあるのですが、今回は10月8.9日で参加してきた信州若者会議というイベントについてです。

 

 

信州若者1000人会議2016とは、ざっくりいうと、信州に縁のある若者が東京に集まり未来の信州を考える というものです。

 

すっごく熱い場でした。長野人って、地元愛がすごく強いようです。単純に地元が好きという人も多いですが、さらに地元に貢献したいという若者がめちゃめちゃ多い。

二日間どっぷり信州に浸かって感じたのはシンプル。「長野の未来明るいなあ」でした。これだけ熱量のある若い人がいて、長野がだめになる未来が見えません。僕なんかまったく外の人間ですが、そんな風に思わせてくれるような熱い人達がたくさん集まる素晴らしい場でした。

 

ところで、地元愛ってどうして生まれるのでしょうか?今回会った人達は、とにかく地元愛が強い!そして、なんで?って聞いても、わからないと言います。

なんでなんでしょうか。

自分も地元愛とか、日本への愛国心とか、こういう気持ちってなんで生まれるんだろうなあとよく考えるのですが、この前ある本を読んで、すっと腑に落ちたキーワードがあります。

それは「誇り」です。

地元愛の中にはもちろんあらゆる構成要素があると思うのですが、その中で大きく占めるものとして「誇り」があると思っているんですよね。自分の地元に誇りを持っているから地元が好きだし、帰りたいと思うんじゃないかと。

例えば、わかりやすいものだと「エコな町世界一位」とかのような何かの一位になっているということ。他には、その国の中心の都市には無いものがあること。自然とか、山、農村、そして人の優しさとか。

長野は確かに「何が良いの?」と聞くと、みなさん待ってましたと言わんばかりに誇らしげに列挙してくれます。

 

そんな感じで、「他と比較して自分の町が良い!」って思えるものを作るのって、持続可能なまちをつくることにおいて結構大事なのかなあと思っています。

 

というわけで、起承転結もクソもないこれぞ日記という感じの久しぶりの投稿でした。

 

妙心寺大衆坐禅会に参加してきた

9月3・4日に、妙心寺で開催された大衆坐禅会に参加してきました。

最近になってマインドフルネスに興味を持ち勉強をし始めたものの、自分で本格的に実践してみたことがなかったし、お寺で行われている坐禅会がどのようなものなのか興味があったので、参加してみることにしました。

今回参加したのは妙心寺の大衆坐禅会。妙心寺臨済宗妙心寺派大本山で、いわば禅仏教の中心地の一つであります。この坐禅会がすごいのは、夜の5時半に集合して、朝の9時に解散という、お泊り坐禅会であり、料金がなんと一泊朝食付きで2000円!という破格の価格だということ。

京都中のどこを探してもそんな安宿は見つからないでしょう。笑

 

 

どんな人が来るのだろうと緊張しながら集合場所に集まりました。

行くと既に多くの方が集まっています。予想通り年齢層は高めで、ほとんどの方が40代以上、60はいっているだろうなという人もちらほら。おばあさんもいます。ヨガをやってそうな奥様三人組もいました。学生のような人はおらず、間違いなく私が一番若いだろうなという感じです。

常連さんと新規さんで半々くらい、合わせて20人ほどの参加でした。

 

はじめに初回者向けにお坊さんからこの坐禅会の説明がありました。

「本日はお越しいただきありがとうございます。最近、座禅がある種ブームのようになっていますね。みなさまの中にも最近禅に関心を持ってこちらに来ていただいた方もいるかと思います。ですが始めに言っておきます。うちの坐禅会は、おそらく日本で一番厳しいです。覚悟して下さい。」

 

・・・小刻みに震えました。あちゃー、来る場所間違えちゃったかな。笑

 

だけど今更ビビっても仕方ありません。そもそもビビるために来たのではないし、怒られないように気をつける訓練をしに来たわけでもありません。

私は、座禅を通してマインドフルネスになるために来たのです。

 

座禅を行う禅堂は薄暗くほんのりとオレンジ色の明かりが灯っています。中は少しだけムッとしていて暑いです。もちろんエアコンや扇風機はありません。(それゆえ、8月は休会になっています。)

座禅を組む畳は60センチくらい段上の高いところにあります。それぞれ自分の畳一畳分の「単」が指定され、そのなかで座禅を組んだり、夜は布団を敷いて眠ります。

ちなみにこの「単」という言葉、今でも使われる「単位」という言葉の由来になっています。

 

座禅に入るまでに、色々な作法があるのですが、これがなかなか面倒くさい。常連さんたちが教えてくれるのですが、結構怖い。少しでも間違うと、厳しめに注意されます。

言うならば、めちゃくちゃ上下関係の厳しい体育会系の部活のような感じでしょうか。

寝る時から朝食の作法まで厳しくされ続けるので、これに結構心を乱されました。まあ僕なんかは年上の人に叱られたりするのにあまり抵抗無いですが、これが40,50歳の人になるとかなり厳しかったんじゃないかなあと思います笑

 

さて、座禅です。

座禅の時間は一本の線香が燃え尽きるまでの時間です。だいたい20~30分です。これを何セットか繰り返します。

座禅をする中で一番大切なのが姿勢。心と体を一致させるには、良い呼吸をすることが重要になります。それで座禅をするときには結跏趺坐と言って、両足をももの上にのせる座り方をします。それができない人は半跏趺坐と言って片足を上げる座り方をします。これにより姿勢が整い、お腹から呼吸ができるようになります。

座禅は心から日々の雑念を全て追い出し、心を無の状態にすることを目的として行われます。欧米で流行っているマインドフルネスの考え方とは、根本は同じであれ、少し異なっているように感じました(マインドフルネスとは、何かの状態を作ることではなく、ただ気づきをもって頭に浮かんでくる事を観察すること と多くの実践書で説明されています)。ともかく、ここではそのように教えられました。

座禅で集中するための方法としては、数息観と言って、自分の呼吸だけに集中し、1から10までを数え続けるという方法が一般的です。目的は、思考ではなく「今ここ」にある現象に集中を向けるということなので、足の爪先に集中するでもなんでも良いのですが、呼吸が一番実践しやすいので、普通は呼吸を集中の対象にして座禅を行います。

 

さて、座禅の説明はここらへんにして、この坐禅会を通して感じたことを綴っておきます。

結果から言うと、何も、得られませんでした。何の境地にも達せませんでした。

夜と朝で結構な時間座禅に取り組みましたが、ダメでしたね。難しい。呼吸に意識を向け、浮かんでくる思考に気づいてただ観察するということを実践していたつもりですが、始めはそれっぽいものができていても、時間が経ってくると体も痛いし、思考に心が奪われがちになります。幾度と無くハッと集中の対象が呼吸からそれていたことに気づき、やり直すも、またそれていきます。

直近に起こった出来事や、明日のこと、これからのことが浮かんでくることもあれば、最近の出来事とは全く関係の無い昔の出来事、さらにはなんでいま自分はこんなことを考えていたのだろう思うような心の底に沈んでいたことが浮かんできたりもします。ちょうど夢の中に全く会っていない過去の知人が出てきて不思議な気持ちになるような、そんな感覚です。

そうしているうちに座禅の時間は終了してしまい、掃除をして、感想共有を兼ねたお茶を頂く時間になりました。参加者の感想やお坊さんの最後のお話を聞きながら、「ああもう終わってしまった。座禅する前としたあとでなにか変わったっけ?あれ、何も変わってなくないか?てかむしろ頭の中ごちゃごちゃになってないか?なんかヤバイ!」みたいなあっぷあっぷな気持ちになってしまいました。

 

会を終えて、汗でベタベタになった体と散らかった脳内を洗い流すために温泉に直行しました。温かい湯船に浸かりながら、改めて想像以上に自分の心の中が混沌としていたことを思い知りました。普段はこの混沌の状態が当たり前になっているのであまり気になりませんでしたが、座禅をしてじっくり自分の思考に意識を向けてみると、頭の中がゴミ屋敷のように無駄な思考で埋め尽くされ、整理されていないことに気がつきました。そしてそんな状態がなんだか煩わしくて仕方なくなりました。

もっと気持ちのいいすっきりとした心を保ちたい。なんでこんな状態になっているんだろう、どうしたらすっきりとした心になれるんだろうと考えて、思い至った原因があります。

それはインターネットによる影響です。今の時代は、いつでもどこにいてもすぐに膨大な情報にアクセスすることができます。またメールやSNSにより、周りの人に常に接続することができ、何もしなくても沢山の情報が流れ込んできます。これは人類にとって大発明であり、生活の効率性を高めてくれました。またSNSで繋がれば、会わなくてもその人が今何をしているのかがわかり、人と人との繋がりをずっと保っていられるようになりました。

だけど、、それによって、「今ここ」にいる感覚が凄く薄まってしまっているような気がします。SNSによって自分も他の人も、現実の場からオンラインの場へと体が半分吸い込まれてしまっているような気がします。どこにいてもTwitterFacebookを開き、オンラインの場に入り込み、現実の場から引き離されて、頭のなかがふわふわと空中に漂っているような、そんな感覚があります。

そんな環境の中で、心を落ち着けてクリアで静かな状態に保つのなんてほとんど不可能ですよね。だって、インターネットなんてない千年以上も昔の世界でさえ、俗世間の雑音から離れるためにわざわざ山奥に篭って座禅をしていたのですから。

 

そうして自分の生活を省みました。SNS大好き人間の私は、事あるごとにTwitterに投稿をし、Facebookに何かを投稿すれば「いいね」の通知がくる度にアプリを起動し、いい景色を見れば、まず感動するよりもどうしたらInstagramにあげるためのいい写真が撮れるかを考えていました。完全に思考がそちらに奪われ、体の半分以上がオンライン世界に浸ってしまっていた気がします。今まではそれが楽しかったし心地よかったので良かったのですが、座禅をしてから、そんな心ここにあらずな感覚が嫌になってしまいました。

だからといって、今の時代でインターネットに接続しないアナログ人間になるわけにはいかないので、まずは関わり方をもう一度考えてみることにしました。

そして、Twitterをやめる決意をしました。この辺の詳しいことや辞めた理由などはまた別記事にかくとして、7000ツイートくらいしていたし、あらゆる情報源にもなっていた大好きなTwitterを辞めたのです。でも今は辞めてよかったなと思っています。

 

座禅をして一週間が経って、あらゆる場面で自分の心が乱されるきっかけになるような事象が起きていることに気づくようになりました。例えば、LINEで友人から連絡が来ると、そこが起点となってあらゆる思考が呼び起こされます。それに気づくことができれば思考はそこで止まるのですが、油断していると下手すれば一日中心が奪われてしまうことにもなりかねません。また、テレビも危険です。意図を持ってテレビを見るのならいいのですが、なんとなくつけていたテレビに綺麗な人や性的な描写があらわれると、一瞬で心の中が乱されてしまいます。こんなこと書くのも恥ずかしいですが、男ってそんなもんだなあと思います。笑 

別にLINEやテレビを否定するつもりは全く無いのですが、何かに集中している時に予期せずそういったものが入ってくると心が乱されてしまうなあということです。好きなアイドルが出ているテレビを今観ようと思って観るのはいいし、目的があってLINEをしようと思ってLINEをするのはいいと思います。

 

話が座禅から少しそれました。長いからそろそろ終わりにします。

まず、座禅によって無の境地を作るのは山にでも篭もらない限り無理です。たとえ山に篭っていい感じになったとしても、俗世に戻った瞬間にまた元通りになる気がします。

なので、私がこれから目指したいのは、初めにも少し書いた「マインドフルネス」な状態です。情報が沢山入ってくることによってある程度頭の中がごちゃごちゃになるのは仕方ないとして、インターネットと適切な関わり方をし、常に自分の思考に気づくために常に意識を向け、今目の前で起きている現象に集中できる、そんな状態になりたいなあと思います。

 

座禅をやってみて、自分自身何か新しい境地を得られたというようなことは全くありませんが、自分の心の状態を知り、考え直すいいきっかけを得ることはできました。

こういう会はしばらくはいいですが笑、また忘れた頃に参加したいなと思います。

忍者道場で忍道を知る

京都にはおもろいところがたくさんあります。

「忍者道場」というところに行ってきました。

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40歳で忍者に転身した伊蔵さんがやっている忍者道場。忍者グッズがたくさんおいてあったり、忍者体験をすることもできます。店内には忍者屋敷さながらのからくりやしかけも。

ざっと忍者豆知識を紹介。

・忍者の刀は、鞘が丸ではなく四角形

ー壁に立てかけて足がかりにして壁をよじ登ったり、どこかに隠しておくときに安定する

・忍者の刀は反っていない

ーなんでだかわすれちゃった

・手裏剣は、元々は棒状だった

ー手の裏の剣と書くように、もとは短剣。手の裏に忍ばせて突き刺したり、もちろん投げて攻撃もできた。

 

などなど。いろんな仕掛けが施されていて、とても面白いです。

 

 

色んな話を聞けたけど、特に面白かった話。

サムライは左の腰に刀を差します。

誰かに対面するときは刀をおろし、逆さにして自分の右側に置きます。これは、すぐに刀を抜けないことを示し敵意がないことを相手に示すため。

でも、サムライが座るときには、すぐに刀を抜けるように、左膝から地面に下ろします。

つまり、両極端の行為が一つの動作の中に同居しているということです。これは非常に日本的な思想らしく、そういった陰と陽というか、両極端のものでもまとめてしまうという、独自の感性があります。

神仏習合はその典型例でしょう。日本人は、昔から白黒はっきりつけるというよりも、それらを受け入れ、共存させることをしてきました。

現代社会では、宗教の違いによって戦争が引き起こされています。日本人の考え方は、こうしたものを止める一筋の光になり得るのではないか。ということを話されていました。

忍道にも共通するところがあり、忍者としてこうしたことを伝える活動をしているのだとか。

 

お話を聞いて、確かになあと思うことも多く、大変興味を持ちました。

神仏習合などの日本人の宗教観、忍道や武士道について、勉強してみたいと思いました。

日本人を考える上で、とっても大切な観点だと思います。単なる好奇心だけでなく、ビジネスや生き方に関わってくるような学びが得られるような気がしています。

京都のお寺カフェ 佛光寺D&Departmentに行った

京都に一週間旅行に行っていました。

一週間も行っていると、毎日観光しているだけでも飽きるので、カフェでゆっくりする時間が多くありました。

京都で行きたかったもののひとつが「寺カフェ」。

お寺の中でカフェをやる寺院が増えており、東京にもいくつかお店はあるのですが、今回せっかく京都に来たのでぜひどこか寺カフェに行ってみたいと思っていました。

そこで「京都 寺カフェ」と検索すると上位にバババっと出てきたのが「佛光寺D&Department」というお店。なにやら京都造形芸術大学まちづくり会社D&Dが共同で運営しているカフェなんだとか。

さらに注目すべきは、その佛光寺が、浄土真宗仏光寺派の本山だということ。

行ってきました。

 

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佛光寺の境内の中に、おしゃれな雰囲気を醸し出しているカフェとショップがあります。

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店内はこんな感じ。普通におしゃれなカフェ。

というか、それ以上にメニューとかにも相当なこだわりが感じられます。何度も通ってみたくなるような感じ。人も少なくて、とても落ち着く雰囲気です。

写真には写っていないですが、中央にはお仏壇があり、私達を見守ってくださっています。笑

 

その後ショップの方も見に行ってみました。

同行していた友人のおかげでD&Dの店員さんと話すことができました。

まず、D&Dの紹介。

D&DEPARTMENT PROJECT(ディアンドデパートメントプロジェクト)とは、2000年にデザイナーのナガオカケンメイによって創設された、「ロングライフデザイン」をテーマとするストアスタイルの活動体です。47都道府県に1か所ずつ拠点をつくりながら、物販・飲食・出版・観光などを通して、47の「個性」と「息の長い、その土地らしいデザイン」を見直し、全国に向けて紹介する活動を行っています。

その京都店が、佛光寺のこのお店というわけです。

彼等いわく、京都といういわば日本の伝統文化の発信地とも言える重要拠点になる店舗の選定にはとても労力をかけたそう。

たくさんの候補を洗いながら最終的に見つけたのがここだったそう。歴史も権威もあり、立地もよかった仏光寺は最高の物件だったのではないでしょうか。

こちら、D&D側から営業をかけたのかと思いきや、なんと佛光寺側から申し入れがあったのだとか。若いお坊さんたちが中心となって声を上げ、誘致に至ったんだそうです。

さらに興味深かったのが、宗務所内でやはり意見が対立し、一度は否決にもなったのだということ。それでも若いお坊さんたちはめげずに説得を続け、ついに認めてもらえることになったのだそうです。

いや、実際ほんとうにすごい。本山のお寺がこうして寺カフェをやるということは、普通のお寺がやるよりも何倍もハードルが高いはずです。そんなに悪いことではないと思っていても、本山がやるのはちょっと・・という意見がたくさんあったのではないかと思います。全国にある末寺に対して、「浄土真宗仏光寺派はお寺でカフェをやったりする宗派です」と宣言するようなものですから。

だけどそれでも誘致に踏み切った。その裏に、坊主たちの熱いドラマを感じるわけです。

ここからは創造の範疇を超えませんが、おそらくは、仏教はこのままではいけないという思いがあったのではないでしょうか。

D&Dのスタッフさんも言っていました。

「やっぱり、仏教も昔の慣習とか文化を維持し守っているだけでは時代に取り残されてしまう。今の若い人が仏教に関心がないのなら、関心を持ってもらえるように、見せ方を変えていかなければいけない。時代に仏教が合わせていく必要があるのではないか。」と。

本当にそのとおりだと思うんですよね。それで、佛光寺はカフェという形でそれに取り組んだということだと思います。

で、何度も言いますが、佛光寺は一派の本山なのであります。本山が自ら先陣をきってこのような試みを行ったというのは、業界を震撼させるほどの衝撃があったのではないかと思います。少なからず自分のお寺に危機感を持っている人たちにとっては、色々と考えさせられる種になったのではないでしょうか。

実際、他宗のお坊さんたちが、視察に来ているところで偶然遭遇してしまう というような光景をお店の中で見かけたこともあると言っていました。

 

んー、すごく面白いお話を聞くことができました。実際カフェを利用した人たちが仏教に関心を持つようになるのかという点に関しては、検証の余地があるように感じましたが、でもお寺を知ってもらう、来てもらう第一歩としては凄く良い試みだと思いました。

これが刺激となって、他のお寺でもこのような新しい試みをするところが増えていくと良いなあと思います。

ここには、その旗印となるポテンシャルが十分にあると感じます。

 

色々なことを考えさせられるすごくいい機会になりました。

ありがとうございました。

 

ぼやき集 2016年9月〜

禅宗の開静(朝起きること)の起こし方をアラームにしたら絶対飛び起きるのにな。

禅のお寺では、お坊さんが

「チンチンチンチンチン かいじょーーーう!!!」

と叫ぶと、修行者たちは一斉に飛び起き布団をたたみます。

だれか作ってくれ。

 

 

かりんとう、冷やすと美味い。