大勢での飲み会は、長めの自己紹介以上にはならない

今日も参加してきました。30人近くの参加者がいる飲み会です。

僕は大勢の飲み会が嫌いです。参加しても、基本何も得られないと経験則からわかっています。

でも。これに3000円使うのもったいないよな~と思いつつ、でもやっぱり、もしかしたら、いい出会いとか発見があるんじゃないかと、淡い期待を抱いて、懲りずに参加してしまうわけです。

安い酒と飯に費やしてきた3000円たちを思うと胸が苦しくなります。

さて、そんなぼくですが本日、大学3年にして、ついにこの「大勢飲み会」の真理を掴んだ気がするので、書き残します。

 

まず、大勢の飲み会には、2つの種類があるということを明確にしておきましょう。

一つ目は、同窓会や打ち上げなど、気心知れたグループで行う飲み会。

もう一つが、半数以上が初対面の出会い飲み会。

 

自分がこれから参加するのはこの二種類のうちどちらの飲み会か、ということを理解していないと、期待と事実とのギャップに萎えることになります。

どういうことか。

僕が嫌いで、今回考察を進めていくのが二つ目の飲み会。初めましての人ばかりの飲み会です。

では早速、この飲み会について、箇条書きにて文句を垂れていきます。

 

・2時間3000円で30人とか集まっても、結局話せる人は限られる

・ほぼ初めましてだと、自己紹介から始まり、小グループでも一周したらそこそこ時間がかかる

・基本的に皆、沢山の人と話したいというモチベがあるため、目の前の人に対して心を向けきれない

・そんな環境なので、自分の話を長くしようと思えない

・結果、要点をかいつまんだ圧縮した話になってしまい、聞いてて心に入ってこない

・できるだけ簡潔に話すテンションなので、会話が全く深まらない

・着席だと、移動するのもタイミングを図るし目の前の人に失礼じゃないかという気持ちもあるので、そわそわして話を聞く姿勢が作れない

・最後には、話しきれなかった&もっと皆と話したかった感だけが残る

・あれ、これ、長めの自己紹介しあっただけだな。。完

 

今思いつく限りの不満を述べてみました。

さて、今日参加したものは、僕の信頼できるコミュニティの交流会でした。間違いなくいい人はたくさんいたのでしょうが、結果としては、また飲みたいと思える人には出会えなかった。

そうして思ったのは、どんなにいい人が集まっていても、このスタイルの飲み会では何かを発見したり、議論することはやはり難しいということです。だいたい自己紹介の範囲の会話に終止してしまいます。

 

ただ注意すべきは、これにはそもそも自分のスタンスが間違っている可能性もあるということです。

どういうことかというと、場の提供者が想定する価値と、自分の期待が合っていなかったら、そりゃあ満足度高くはならないよね、ということです。

今日でいうと僕は、今日は深い話をしたい、新しい発見を得たいという感じの気持ちで参戦したわけなのですが、

基本的にこのスタンスの飲み会は、新しい出会いを提供するのであって、二歩目まで提供するものではありません。参加者はここでの出会いが次につながっていけばOK!というくらいの気持ちで参加すべきで、深い話は期待しないほうがいいと思いました。

で、場を作る人は、飲み会のメンツと時間と場を踏まえた上で、提供価値を意識して、会を作るべきだと僕は思います。たぶん、初対面が多い場であるなら、交流を最大化できるような会にするのがベスト。

そこの目的がブレると、よくわからないもやっとした会になってしまいます。

 

というわけで、はい。最後に、これが一番言いたいことです。

そこまで掘っていくと、気づきます。

これはもはや飲み会である必要は無い。軽食とソフドリの立食交流会で十分だ。 と。

 

僕なんかは少し飲むと顔が赤くなるので初対面の人にいい印象を与えないし、結局自己紹介みたいな話が多くなるので酔いながら話す意味もない。

いいことがない!

 

というわけで、夕方ノンアルで立食交流会をして、二次会、三次会で飲みに行って仲を深めていくのが、理想の初対面交流会だと考えます!以上。

 

酔った勢いで書き綴ってしまいました。終

モチベーションの変遷に関して

ふと、自分が今やっていることに対するモチベーションがなんなのかということは常に意識して理解しておいたほうがいいなと思った。

つまり、モチベーションって意外と気づかないうちに萎えてたり次の別のものに置き換わっていることがあるんじゃないかなあと。

 

例えば、ある会社でインターンすることになったとして、初めはその会社の会社意識やビジョンに共感して参画したんだけど、やっているうちにそのモチベは色あせて、「自分の成長」が一番のモチベに変わっていたり、はたまた気づかないうちに「自分の世界を広げる」という方向に向かっていたり、時期によっては「就活のため」になっていたり、意識してなかったけど実は「今好きなあの子のため」に頑張っていたり、

時間の経過と環境の変化によって、モチベーションって意外にころころ変わるんじゃないかなあと思った次第です。

 

そしてその変化に常に敏感になって、今の自分をしっかり理解しておくのが絶対必要だと思います。

いつのまにか自分のモチベーションがこれまでと別のものに変わっていたとして、それに気づいていなかった場合、言動と行動が微妙に噛み合わなくなっていくと思います。

他者から見ても、何かはっきりしないなあという印象を与えるだろうし、それ以上に自分自信を理解していないまま、違和感ともやもやだけが膨らんで、苦しくなってしまうと思います。

 

そうなるよりは、ころころモチベーションが変わる自分を認めて受け入れて、まっすぐに自分を理解しようとする姿勢を持つことが大切なんじゃないかなあと思いました。

 

以上。

 

 

若さ溢れる斬新なアイデアを!っていうけれど。

これ、大学生なら一度は言われたことのあるセリフではないでしょうか?

僕もこの期待に何度苦しめられたかわかりません。

「よっしゃ!がんば................んー、いや、なんか、無理!出ない!」

とその都度感じていて、自分なりにどうしたらいいのか考えて、ここ半年くらいはインプット重視の生活を送ってきたのですが、

『アイデアのつくり方』ージェームズ・W・ヤング著

という、1960年に刊行されて以来現在でも色褪せない名著をただいま読みまして、自分が感覚的に感じていたことがドンピシャリで言語化されていて感動したので、整理も兼ねてまとめます。

 

「アイデアとは、既存の要素の組み合わせ以外の何ものでもない」

 

この一文を見たことがあるという方は多くいらっしゃると思いますが、

イデアとは、何もないところから突如生まれるものでなく、”ある一定の明確な方法”に従って生まれるものだと述べられています。この方法が「確かに!」の嵐で目から鱗もんだったので、

本著で述べられている「アイデアを生むための5つのステップ」を簡単にご紹介。

一、情報集め

実はこのステップが一番大切なのに、多くの人はこれを飛ばしてしまいがちである。

何もないところからアイデアは生まれない。アイデアの源泉となる情報を集める必要がある。情報には「特殊情報」と「一般情報」の2つがある。特殊情報とは、特定の分野(アイデアを出したい領域)に関する情報のことで、これは徹底的に掘り下げて集めていく必要がある。一般情報とは、この世の様々な出来事についての情報のことである。人生を通して収集していく類の情報だ。

蓄積されたこの二種類の知識を組み合わせることが、すなわちアイデアを作るということである。

二、情報の咀嚼

次は、これらの情報を咀嚼する段階である。情報に意味を付加していく。ここで大切なのは、集めた個々の情報を正面から眺めるのでなく、様々な角度からこねくり回して、パズルのように組み合わせを考え、それを限界までやり抜くことだ。ここではまだアイデアは生まれなくてもよい。

三、資料の熟成

そこまで考え抜いたら、一度それらを完全に意識の外に放棄し、全く別の趣味や創作活動に心を移す。

四、舞い降りる瞬間

イデアが訪れる瞬間というのは、アイデアを探し求める心の緊張を解いて、休息とくつろぎのひとときを過ごしているときなのである。思いがけないタイミングで、そのときは訪れる。

五、アイデアのチェック

最後に、そうして生まれたアイデアが陽の目を見るために、現実の過酷な条件や世知辛さといったものに適合させるべく、忍耐強くアイデアを鍛えていくことが必要がある。良いアイデアというのは自分で成長する性質を持っているので、多くの人の目に触れさせ、可能性を見出してもらっていく。

 

以上がアイデアを生むステップになります。

誰しも一度はこのようなステップを踏んだ経験があるのではないでしょうか?出したいアイデアでレベル感の大小はありますが、基本全ての場合でこれが当てはまる気がします。

 

さて、冒頭に戻ります。

「若さ溢れる斬新なアイデアを!」という言葉への違和感が、もののみごとに本著で言語化されていて、いたく感動したわけです。

つまり、これまで僕は「若さ」という魅惑の響きを持つ言葉に乗せられて、自分が何か特別な力を持っていると錯覚し、無謀にも挑戦心を掻き立てられ、勇んでアイデアを考えていたのですが、一番大切な「資料集め」のステップをぶっ飛ばしてたじゃん!ということです。

学生たちの企画立案コンテストなんかだと、知識量にそこまで大差が無いため、結局ひらめき勝負になり、頭の柔らかい人が勝つことになるのですが、そうして自信をつけたとしても、自分より一回りも長く生きている人と比べたら、自分の持っている手札が圧倒的に少ないということは一目瞭然で、いくつになっても毎日コツコツ情報収集しているような人にはなかなか勝つことは難しいし、でもそういう人達をオオ!て言わせられるアイデアが出せないと意味は無いわけで・・

若いうちから成功するのは難しい。並大抵の努力じゃ無理!ということ改めて認識しつつ、そこで初めて「若さ」という当事者性、視点という価値を意識して、勝てる分野を探していくことなのかなあと思います。

 

そんなわけで、もっともっと勉強だなあと気持ちを新たにしたのでした。

 

PS.とはいいつつも、集めた知識をマイニングする訓練も同時に必要だと思い、でも自分の限られた知識を十分に発揮できる環境なんてあるのかな。と悶々としていたタイミングで、

まさにその「若さ」を「特殊知識」として発揮できる環境を頂きまして、これならもしかして価値を出せそうだ!という実感をもちながら、日々修行に励んでいるこの頃です。

 

 

 

いろいろな人にエンパワメントされた一日

こんばんは。今日はなんだか心の火に空気がぶわっと吹き込まれたような一日だったので、ちょっとこの気持ちを残しておこう。もう寝ようと思ったけど。

 

最近、周囲を見渡すとピュアに熱くて優秀な人達がたくさんいて、ふと、“なんでもできるぞ”感に包まれることがあります。

夏休み以降自分の世界がぐっと広がって、同時に自分の力もなんとなくわかるようになって、さらに加えて「これがやりたいです!」って言えるようになったことによって、周りに素敵な人がたくさん増えました。

この人達と一緒なら、なんだってできるなあと、実感を持って感じています。

なぜ実感を持てているかというと、夏インターンをはじめ就活を通して、社会のこと、人をより具体的にイメージができるようになったからです。

 

んで、今日はなんだか熱い人の熱意に触れすぎて、なんともいえない高揚感に包まれているのです。

 

もしかして、昨日のアメリカ大統領選の結果を受けて、各々が気持ちを新たにしていたのかもしれません。

 

というわけで、今日触れた熱い思いをメモっときます。

 

・朝起きる→アイリープLINEが白熱している

シアトル留学仲間は、自分のことをフルオープンに語り合えるだけでなく、社会のことや政治のことも真剣に議論し合える最高のコミュニティ。アトランタの黒人大学に留学中のちさとの現地レポートを皮切りに、各々が意見を表明しあった。それを通じてみんな頑張っているんだなあと感じまくり。「おれ勉強する!」と豪語していたゆうとは一番の博識になっていたし、ゆうさんは社会的弱者の伴奏者でありたいと改めて表明。行動を見てても、まさにそれを体現していると思う。かっこいい。

自分もこういうLINEを送ってた。

かんちゃんの話すごい共感
翻って日本でもこれと同じような構図が、自分には見えていないだけで存在してるんだろうけど、できればいま自分がいる心地よい環境から出たくないし、そういう層の人の人たちとは関わりたくないと思っている自分がいる。
そういうの含め自分がどこの世界で生きて行くのか、何がしたいのかって改めて考えさせられたなぁ。

社会の断絶とどう向き合っていくか。そもそも自分が向き合うのか。自分はどこの世界で生きていくのか。ちゃんと考えなきゃいけない。

 

・ビズリーチFさんと面会

肉リーチでお話し聞いて興味持った社員さんとアポを取り改めてお話聞かせてもらうことに。学生起業で二年間会社を経営した後、力をつけたいという思いでビズリーチに入社。ガンガン働いて成果出しまくってる方。

主に話聞いてもらう感じだったけど、沢山気づきがあった。やる気出た。

これだけメモしておきたい

優秀な人 の定義は、思考力×実行力 だそう。これは諸々経験した方の意見なので大切にしたい。自分はとにかく実行力だな。

ちなみにこれから一緒に面白いことができそう。いいチャンスもらった。

 

リクルートキャリアMさんと面会

今関心を持っている企業、リクルート。ビズリーチキャンパス使ってみたら速攻でアポ取れたので、お話聞いた。またタイプが違って面白い人だった。キャリアアドバイザーをやってたとかで、なかなか参考になる視点をたくさん頂いた。この辺の整理はまた。

仏教の話、お寺業界の話をたくさんしたら、自分のなかでも整理がついたし、具体でなにをすべきかわかってきた気がする。将来をできるだけ具体的にイメージして、そこにむけたステップ踏んでいきたいと思う。一緒になにかできたら・・と考えるとワクワクする。やっぱ、色んな業界のステークホルダーに助けてもらいながら進めていくのが最善だと思った。そのほうがいろんな事ができるし、なにより楽しそう。

 

・M

塩尻で一緒だったみーこはRMPの教育事業でインターンを始め、かなり大きなプロジェクトを主導しているらしい。本当に楽しそうだったし、凄く刺激的な環境でやってるんだろうということがひしひしと伝わってきて、エンパワメントされた。お誘いもしてくれたし、一緒にやりたいなあという気持ちめっちゃあるけど、自分の本当にやりたいことをやろう。良きライバルと思って、たまに話したい。

 

・G、R

最近強制的に勉強するきっかけを作らねばと思いいたり、勉強会をしようと呼びかけている。Rこは久しぶりにあったらこれまで以上にすげえやつになっていてめちゃ刺激受けたので、一緒にマーケティングの勉強会することにした。

Gっしーは、いつもすごい。パワーがすごい。証券マンになる彼とは金融の勉強会をすることにした、明日楽しみだ。

こうして共に学び合える友達がいることが本当に嬉しいし、動機づけになる。

 

・Aちゃん

ピュアに頑張ってる人は誰でも大好き。LGBTに対して現状に課題を感じている彼女が紡ぎ出したFBの投稿はすごく良かったし、昼にちょっとやりとりした内容だったのでなぜか嬉しかった。こういう純粋な思いをまっすぐに表明できるひとって素敵だなあと思う。

 

・知らない女子たち

いつものようにカフェで閉店まで粘っていたのだけど、今日は隣にやけに勉強熱心な女の子が。友達と来ているんだけど、一緒には座らず、たまに進捗報告をしあってまた各々課題に取り組む。勝手に一緒に頑張ろうという気持ちになってた。(集中しろ笑)

 

とこんな感じで、今日はFBの投稿も熱い投稿が多かったし、とってもエンパワメントされた一日でした。とにかく、勉強したいこと、やりたいことが山ほどありすぎる!

明日からまた頑張ろう。よりよい人生、より気持ちよく生きられる社会を目指して。。

 

 

退屈 の考察を通して生き方に関して新たな示唆を得た

急に思いついたのでメモ

 

この前暇と退屈の倫理学という本を読みました。

めちゃくちゃおもしろいなー、読み応えあったぜ・・と思いつつも、

あれ、どうも退屈というものが自分の中で落ちてこない。

え、みんなそんな退屈してんのかな?俺は全然退屈してないけど。

 

と、そんな気持ちでした。

 

だったのですが、ふと思いついたことがあります。今日は本を読んだ感想と、そこから新しく感じたことについて書き残しておきます。

 

まず本の感想。読んですぐは、自分は退屈してない感覚があって、腹落ちしない感があったのですが、やっぱり自分も本にある通り、人間として退屈というものを感じていることに気がつきました。

そしていま退屈じゃないと感じていたのは、無意識に退屈の状態を自覚し、そうならないように行動しているからだということに気がつきました。

 

ところで一旦この退屈というものについて説明しておきます。

それは「刺激がない状態」です。無風。 

 

さて、僕がさっきふと思いついたこと。これが自分の中で結構大きな発見だったんです。それは何か。

僕は、人間の目指すべきは「幸せ」だと思っていました。

どんな状況であれ、その人が幸せだと感じられていれば、それで良いと。

これからの未来、色んなパラダイムシフトが起こるだろうけど、まず世界が目指すべきは個人の幸福であり、そこは絶対に踏み外してはいけないところだと思っていました。

その人が幸せなら万事OK!そんなふうにさえ思っていました。

 

しかし、気づきました。

 

幸福=退屈の解消 ではないということに。

 

幸せという概念と、退屈という概念は全く別次元に存在しています。

そしてどちらか一方を満たしても、もう一方も満たされない限り、本当の理想状態にはならないのではないでしょうか。

つまり、周りから見ても自分から見ても「本当に幸せだなぁ」と思っている人でも、そういう状態がずっと続くと、「退屈」という厄介な感情が頭をもたげてくるんじゃないかと。「退屈」な状態では「幸せ」だとは言えません。

同様に、「退屈」を解消すれば幸せになるかといえば、そうともいえない気がします。

退屈を解消するには刺激が必要です。でもその刺激というのは、感情的なプラスマイナスは関係がなく、とにかく刺激なのです。

それゆえ人は、自らシビアな状況を望んだりします。

 

なんかいろいろわかってきました。

 

人が同じところに安住せず、向上心を持って高みを目指したり、リスクのあるチャレンジをしようとするのも、「退屈」を解消するためなのではないでしょうか。

 

僕は結構、幸せ とか、生きる意味 とか、社会的価値 とかをベースに社会を捉えがちだったので、何かにつけて「それどこに向かってるの?」とか、「何モチベでやってんの?」とか、「やってて何が嬉しいの?」とか思ってしまうたちだったのですが、

 

この「退屈」という測りで捉えてみると、上に書いたようなことでも結構腑に落ちるなぁと。

 

全ての行動理由を深掘りした先、人間の全ての行動原理はこの「退屈」という感情を解消したいという動機から始まっているような気がします。

 

これ、自分の感情でも同じで、自ら進んで厳しい選択をしたり、できる限り上を目指したいと思ったりするのですが、

これも意識せずに退屈というものを避けようとする気持ちの表れなのかもしれません。

 

ふーむ。

 

では人類が目指すべきは、刺激を受けやすい社会 ということになるのでしょうか?

 

んー、なんか違う気もする笑

 

幸せと退屈回避のバランスなんですかねー。うむ。

 

この退屈という感情とどう付き合っていくのかという問に対する絶対的な答えは存在せず、各々が模索していくものなんだろうと思います。

 

まあ僕は、最後に「いい人生であった」といえるような人生を送りたいですね。

 

 

これ以上続けると無限にだらだら書いてしまいそうなので、今日はこれくらいで。

 

また書きたくなったら追記します。(←追記しました)

 

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 ところで、もしかしたらお釈迦様は、この退屈という感情を

「人間が逃れることのできない無限の苦しみ」と呼んでいたのかもしれない と思いました。

そうなると、やはり人類の目指すべきは “涅槃”・・・!!!

僕には涅槃がどういうものかわからないし、今の世の中でそこを目指すのはより一層難しいとは思いますが、

この仏教の教えから、これからの社会を良くしていくヒントになるようなエッセンスを抽出できないものですかね。

 

星野リゾート 星野氏のご講演を聞いて

10月8.9日で参加した信州若者1000人会議2016 で、星野リゾート星野社長のご講演がありました。

色々面白かったので書きます。

 

まず、端的に言って、星野さんゴリゴリの頑固おやじでした。

 

お話のメッセージは大きく分けて3つ。

・競争すべし

・官民の関係性について

・いかに健全で良い社会を作っていくか

でした。

 

順番に説明していきます。

まず一つ目、これが一番のキーメッセージでした。「もっと競争すべし」。

企業たるもの競争なしでは良い社会などできない。競争にこそ面白みがあるし、競争してこそ企業が成長する。ということでした。

そして二つ目のメッセージにも繋がるのですが、行政はそういった健全な競争環境を作るために税金を使うべきだと。現行の行政は、とにかく民間がすべきことに介入し過ぎで、かれらが税金をじゃぶじゃぶつぎ込むことによって逆に民間を圧迫しているということに全く気づいていない。最悪だと言っていました。

この境界線はとてもむずかしいと思いました。いかにして民間を活発にするか。それがうまくいかないから行政がやってしまおうという発想になっている、つまり前述の逆の流れになっているのかもしれません。

一つ塩尻の山田さんがおっしゃっていてしっくり来たのがこれ。

「行政の仕事は名前をつけることなんだよ。」

これどういうことかというと、行政の仕事は、民間の事業を横で見て繋いでいくことなのだということです。一歩引いて外から全体を見て、どうしたら社会に良いインパクトを与えられるか、それを常に考えてやっていくことが行政の役割なんだと言っていました。

・・・かっこいい。さすがです。

 

少し話がそれました。星野さんの話は続きます。

最後はいかにして良い社会を作っていくかということです。星野さんは、企業のCSR活動を痛烈に批判しています。自分の事業と全く関係のないCSRは、やることが目的で、やった事実に価値があってそれ以上ではないので、不況時には景気削減の対象になるし、やったことに対して全く責任を持っていないということでした。つまり結果はどうでもいいというわけですね。

そしてこれからの新しい企業の社会貢献のあり方として、CSVがあるという話をされていました。CSVとは(Creating Shered Value)の略で、企業の利益追求の方向性の中に社会貢献も含まれているということです。以前何処かで書きましたが、例えば企業がLGBTの従業員が働きやすいように環境を整えることによって、性的マイノリティのためにもなるし、企業もとしても多様性を受け入れることによりクリエイティブなアウトプットがだせるようになる とかそんな感じです。

また、面白かったのが、もっと規制緩和してAirbnbとかどんどんやったほうが良い という話。星野リゾートとはおそらく競合になるのに、星野さんはそれを肯定します。世界の流れに逆らって、既得権益を守るため規制を強くし入ってこれないようにするというのはまったくフェアじゃないし、そんなことやってたら世界から見放されてしまうと。

そういうわけで、競争は大いにすべきで、厳しいかもしれないけど世界の流れの中で原を決めて戦っていくしかないのだということを強調されていました。

 

最後に、一番おもしろかった質疑応答について。

集まった若者たちは、星野さんのお話に納得がいかない人が多かったらしく、質疑応答では学生たちが立て続けに星野さんの意見に反対の意を表明していました。

だいたい学生たちの主張はこんな感じ。

「競争する社会が人間にとって幸せなのか?人類が目指す方向は、人々の幸せなのではないか」

ということでした。星野さんの主張はやや勝者の思想を感じさせる部分があり、一貫して「健全な環境さえ整えれば、あとは競争するべし。負けても何度も諦めず戦うべし。」という感じでした。

まあその通りなのかなあとも思うしそのベースの中で自分が幸せに生きられる位置を自分で探していくことが競争社会の中で生きるということなのかなあと思ったのですが、

意見を表明した若者たちはこの星野さんの主張に真っ向対立。

自分的にはこれが結構驚きで、自分も社会は人々が幸せになるためにあると思っていて、幸せってなんだろう。とか、社会はどうあるべきなんだろう。なんてことを大学の前半はずっと考えていたのですが、なかなかはっきりとこういう考えを主張する人は少ないと思っていました。

でも今回集まった人達は結構そういう考えを持っていて、なんというか、初めて?いい意味でゆとり世代を感じることができました。

そんな感じで学生は果敢に挑んでいったのですが、星野さんは、「最近こういうこと言うやつ多いんだよな・・」とぼそっとぼやきながら、質問に回答するというか、自分の主張を語るという感じで、次々と質問をした学生たちに消化不良感を残して回していきます。

結局最後までその調子で自分の主張を話し続けて質疑応答終了。質疑応答と言うか、ほとんど講演の延長戦という感じでした。

いや~、星野さん、頑固でした。

 

最後に自分の考えを。

星野さんの言う、競争する社会というのは、そのとおりだなと思うのですが、自分が思うのは、良い競争と良くない競争があるなということです。

一番大切なのは、その企業・業界が解決したいと思っている社会課題を常に先に見据えて事業を行っていくということだと思っています。それがあって、企業間で互いに切磋琢磨できるような関係の競争はとてもいいと思います。

良くないのは、その方向性を見失い、競争に勝つことだけが目的になってしまうケース。この競争の先には、たぶん自分たちの利益しか見据えられていないような気がします。

良い競争でないと、良い社会はつくれないような気がします。

 

余談ですが、最後に自分がちょっと思っていることを。

僕は昔から、同じような企業がいくつもある意味がわかりませんでした。なんで同じことやっているのにいくつも会社が必要なのだろうか。消費者目線に立って、「解決すべき課題に対して必要なこと」で考えると、やることは一つで、複数の会社が同じことをやる必要はないと思います。そうではなく、解決すべき課題に対して必要なことに対して、そこで競争をするのではなく、共創していけばいいじゃないかと。

向かう方向が同じなら、みんなで協力してやっていけばいいじゃないかと、思ったりするわけです。

まぁお花畑とか言われそうですけど。

解決すべき課題があって、それに対するソリューションを考えるのであれば、我先にと競い合うのでなく、みんなで協力していくのが理想なんじゃないかなぁと、東北の復興支援をしていて、色んな団体の事情を見たときに特にそう思った経験があります。

 

長くなりました。

以上、星野さんの講演から、とても色々なことを考えるきっかけを頂きました。

 

 

久しぶりの投稿 信州若者会議に行ってきた

久しぶりの投稿です。

忙しくなると更新しなくなる自分、苦しいですね。ちゃんと時間を見つけてコツコツと更新していきたいものです。

今日は久しぶりにゆっくりブログを書く時間ができたので、何個か書いておこうと思います。

9月、かなり色々なことがありました。それらを一個一個書きたい気持ちはあるのですが、今回は10月8.9日で参加してきた信州若者会議というイベントについてです。

 

 

信州若者1000人会議2016とは、ざっくりいうと、信州に縁のある若者が東京に集まり未来の信州を考える というものです。

 

すっごく熱い場でした。長野人って、地元愛がすごく強いようです。単純に地元が好きという人も多いですが、さらに地元に貢献したいという若者がめちゃめちゃ多い。

二日間どっぷり信州に浸かって感じたのはシンプル。「長野の未来明るいなあ」でした。これだけ熱量のある若い人がいて、長野がだめになる未来が見えません。僕なんかまったく外の人間ですが、そんな風に思わせてくれるような熱い人達がたくさん集まる素晴らしい場でした。

 

ところで、地元愛ってどうして生まれるのでしょうか?今回会った人達は、とにかく地元愛が強い!そして、なんで?って聞いても、わからないと言います。

なんでなんでしょうか。

自分も地元愛とか、日本への愛国心とか、こういう気持ちってなんで生まれるんだろうなあとよく考えるのですが、この前ある本を読んで、すっと腑に落ちたキーワードがあります。

それは「誇り」です。

地元愛の中にはもちろんあらゆる構成要素があると思うのですが、その中で大きく占めるものとして「誇り」があると思っているんですよね。自分の地元に誇りを持っているから地元が好きだし、帰りたいと思うんじゃないかと。

例えば、わかりやすいものだと「エコな町世界一位」とかのような何かの一位になっているということ。他には、その国の中心の都市には無いものがあること。自然とか、山、農村、そして人の優しさとか。

長野は確かに「何が良いの?」と聞くと、みなさん待ってましたと言わんばかりに誇らしげに列挙してくれます。

 

そんな感じで、「他と比較して自分の町が良い!」って思えるものを作るのって、持続可能なまちをつくることにおいて結構大事なのかなあと思っています。

 

というわけで、起承転結もクソもないこれぞ日記という感じの久しぶりの投稿でした。