読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

逢仏殺仏逢祖殺祖

ちょっと前に、自分のFacebookにこんな投稿をしていました。

【平和な日常】

今日はよく晴れて気持ちのいい天気だったので、気分転換に大学の庭園で寝そべって読書をすることに。
たまにはこういうのもいいなーといい気分で、日が落ちた後は図書館に戻って勉強。
お腹が空き始めた頃に、今日は何食べようかなーと考えながらふらふら帰る、いつも通りの1日。になるはずが…

帰ろうとしたら、あれ? 鍵がない!
ポッケに入れていたチャリ鍵と家の鍵、どっちもない…!
うわー、絶対庭園に寝そべった時にまとめて落としたわーと思い、警備員さんに頼んで閉園後の庭園に戻りライトで照らしながら探すも見つからず。
落し物センターに聞いても届いていない。

最悪だーと思いつつ、幸いルームシェアをしているので、ひとまず同居人の竹田に家の鍵をなくしたことを伝えると、「あー、ドアに刺さってたからポストに入れといたよ」と一言。
おい先言ってくれよ! と思ったけど、でもまぁ失くしてなくてよかったとホッと一息。。

でもチャリ鍵は未だ見つからず。
どのみち探さなきゃなーと思いながら、今日のところは諦めて帰ることに。
一応駐輪場の自転車を見に行ってみると、そこには「ずっと待っていました…」と言わんばかりに、自転車にひっそりと鍵が刺さっていました。

なんて日だ!

 

 このとき、自分の思い込みって本当に怖いなあと学んだのですが、

今日読んだ禅の本にこんなことが書かれていました。

 

◯逢仏殺仏逢祖殺祖

"ある日、若い男やもめが家に帰ると、家が焼け落ちており、五歳になる子供が行方不明になっていた。焼け落ちた家のそばには黒焦げになった子供の死体があった。男はそれを自分の息子だと思い、嘆き悲しみ、丁寧に供養した。しかしその息子は火に焼けて死んだのではなかった。その子は山賊にさらわれていたのだが、ある夜逃げ出して父のもとに戻ってきた。息子は戸を叩き、「あなたの息子が戻りました。」といったが、父は「息子は死んだのだ。」と自分が信じていることをあくまで言い張り、戸を開けようとしなかった。結局、子供はそこを立ち去らねばならなかった。こうして哀れな父親は、愛する息子を永久に失ってしまった。(百喩経)”

この喩えは、何かが絶対の真理であると信じて固執しているときには、新しい考えを受け入れることができないのだということを教えています。たとえ真理が戸を叩いても、戸を開けてなかに入れようとはしないのです。
人は、真理が入ってこれるように、知識へのとらわれから自由になり、こころの戸を開けることができるよう努めなければなりません。

臨済禅師はかつてこう言いました。
「仏にあったら仏を殺せ。祖師にあったら祖師を殺せ。」と。

概念に固執してそれを真実そのものと見なすなら、我々は真実を失います。ですから、真実が姿を現すには、真実についての概念を「殺す」必要があるのです。仏を殺すことが、仏を見るための唯一の方法なのです。我々が仏に関して持っているすべての概念は、仏そのものを見ることを妨げることになるのです。
単なる知識は目覚めにとって最大の障害になります。これを「所知障」といいます。

 ーティク・ナット・ハン著「禅への鍵」

んー、なるほど。

身近なところでは、ちょっとした思い込みって怖いよねって話なのですが、

もっと話を広げると、常にオープンな心でないと、何も新しい発見はできないよねってことだと思います。

本で読んだ知識とか、偉い人から聞いた話って、それが絶対的に正しいことのように思えます。わかったような気になります。そういった知識って、手放すのがとても難しい。何かにつけて、それを土台に思考を進めてしまいがちです。

でも、 その状態では自分で本当の真実を得ることはできない。角砂糖がすっと溶けていくように、ある事象が自分の体に溶けて染み渡っていくような感覚は得られません。

結局、「うわ、悟ったわ」という体験って、人に教えられて得られるものではなくて、自分の中で思いがけない瞬間にやってくるものなんだと思います。

そういった体験を受け入れるためにも、知識ばかりに傾倒することなく、知識を持ったうえで、自分の感覚を大切にしていくことが大事なんだと思いました。

守破離」ですね。

最近、もやもやしていることの答えを本の中に求めたり、人と話すときに本から得た知識をそのまま語ったりすることが多かったので、すごくはっとさせられる体験でした。