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「他力」の危なさ

仏教

日本は無宗教の国とも言われますが、一応は仏教の信仰が昔からある国です。

その仏教の中にもたくさんの宗派がありますが、中でも法然から親鸞へと受け継がれた浄土真宗は、特に民衆を救うことを目的として、教えが説かれています。

法然は、ただ一心に「南無阿弥陀仏阿弥陀仏に帰依します)」と念仏を唱えれば救われるのだと、確信を持って説きました。末法思想が蔓延していた当時の日本で、この教えが大流行することになります。ですがこれはもともとあった、修行をベースとした宗派の考え方を否定するものとも捉えられることがあり、しばし弾圧の的となりました。

では、どうして法然親鸞は、このようにこれまでの仏教の潮流からやや外れた教えを、確信を持って説くことができたのでしょうか。

これには、浄土真宗の根本的な考え方である、「他力」という概念が関係しています。

現代でも他力本願などと言いますね。でもここでの意味は、他人任せということだと思います。本当の他力の意味は、これとは少し違います。

「他力」とは、自分だけの力ではどうすることもできないのだと悟り、もっとずっとずっと大きな力によって自分が生かされているのだと考えること、その大きな力のことをいいます。

自分の力だけで生きようとするのではなく、大きな他力の存在を感じ、それに任せるということです。

「自分の力だけではどうすることもできないが、なるようにしかならない」

ということを受け入れると、不思議な安心感が生まれ、なににも動じなくなります。

 

つまり、法然親鸞が主張した、ただ念仏を唱えればよいということの意味は、これまで身に着けてきた知識や感覚を捨て、ただ無心に阿弥陀仏に任せるということなのだと思います。

 

さて、僕はこれを自分なりに噛み砕いて意識しながら生活しているのですが、その中で、ちょっと「あれ、これでいいのかな?」と思ったことがあったので書き残します。

僕は、なにか素敵な機会を頂いた時や、大きな選択をするとき、「そうしろという働きかけなのだな」と思い、できるだけチャンスに飛びついてみることを心がけています。

また、失敗をしてしまった時や辛い出来事があった時には、「なるようにしかならないので、これは失敗すべき失敗だったのかもしれない」と思い、次に気持ちを向けるようにしています。

これが他力を感じながら生きることなのかなあと思っているのですが、、。

先日、ある出来事がありました。

自分がかなり大きな失敗をしてしまって、ある大きな機会が失われてしまうことになってしまいました。またかなり多くの人に迷惑をかけてしまいました。

かなり落ち込んで反省をしたのですが、そこで他力の考え方を思って、「今回の機会は見逃す運命で、もっと他の方向で進んだほうがいいということなのかもしれない」ということを思いつきました。

そうして今は立ち直って前を向くことができているのですが、、果たしてこれでよかったのだろうかと思うわけです。

当然失敗に対する反省はしているのですが、その機会が失われたこと、さらにいうとその機会が失われたことによって閉ざされてしまったかもしれない道への執着が、殆ど無いのです。

また、世の中自分だけで生きているわけではないので、自分の人生だけが他力によって良い方向に向かっていればよいというわけではないと思います。

「なるようにしかならない」って自分は思えるけど、他人のことまで「なるようにしかならないから大丈夫だ」とはそう簡単には思えないのです。

そういうわけで、「あれ、これって本当にいいんだっけ?」とわからなくなってしまいました。

この出来事は、自分の中で育てていた「他力」の考えを揺るがすものでした。

んー、どう考えたら良いのでしょうか。わからん。

まだ答えが見えていないので、この失敗に関しては、心に残しておいて、時間が経ってからまた考えてみよう。