妙心寺大衆坐禅会に参加してきた

9月3・4日に、妙心寺で開催された大衆坐禅会に参加してきました。

最近になってマインドフルネスに興味を持ち勉強をし始めたものの、自分で本格的に実践してみたことがなかったし、お寺で行われている坐禅会がどのようなものなのか興味があったので、参加してみることにしました。

今回参加したのは妙心寺の大衆坐禅会。妙心寺臨済宗妙心寺派大本山で、いわば禅仏教の中心地の一つであります。この坐禅会がすごいのは、夜の5時半に集合して、朝の9時に解散という、お泊り坐禅会であり、料金がなんと一泊朝食付きで2000円!という破格の価格だということ。

京都中のどこを探してもそんな安宿は見つからないでしょう。笑

 

 

どんな人が来るのだろうと緊張しながら集合場所に集まりました。

行くと既に多くの方が集まっています。予想通り年齢層は高めで、ほとんどの方が40代以上、60はいっているだろうなという人もちらほら。おばあさんもいます。ヨガをやってそうな奥様三人組もいました。学生のような人はおらず、間違いなく私が一番若いだろうなという感じです。

常連さんと新規さんで半々くらい、合わせて20人ほどの参加でした。

 

はじめに初回者向けにお坊さんからこの坐禅会の説明がありました。

「本日はお越しいただきありがとうございます。最近、座禅がある種ブームのようになっていますね。みなさまの中にも最近禅に関心を持ってこちらに来ていただいた方もいるかと思います。ですが始めに言っておきます。うちの坐禅会は、おそらく日本で一番厳しいです。覚悟して下さい。」

 

・・・小刻みに震えました。あちゃー、来る場所間違えちゃったかな。笑

 

だけど今更ビビっても仕方ありません。そもそもビビるために来たのではないし、怒られないように気をつける訓練をしに来たわけでもありません。

私は、座禅を通してマインドフルネスになるために来たのです。

 

座禅を行う禅堂は薄暗くほんのりとオレンジ色の明かりが灯っています。中は少しだけムッとしていて暑いです。もちろんエアコンや扇風機はありません。(それゆえ、8月は休会になっています。)

座禅を組む畳は60センチくらい段上の高いところにあります。それぞれ自分の畳一畳分の「単」が指定され、そのなかで座禅を組んだり、夜は布団を敷いて眠ります。

ちなみにこの「単」という言葉、今でも使われる「単位」という言葉の由来になっています。

 

座禅に入るまでに、色々な作法があるのですが、これがなかなか面倒くさい。常連さんたちが教えてくれるのですが、結構怖い。少しでも間違うと、厳しめに注意されます。

言うならば、めちゃくちゃ上下関係の厳しい体育会系の部活のような感じでしょうか。

寝る時から朝食の作法まで厳しくされ続けるので、これに結構心を乱されました。まあ僕なんかは年上の人に叱られたりするのにあまり抵抗無いですが、これが40,50歳の人になるとかなり厳しかったんじゃないかなあと思います笑

 

さて、座禅です。

座禅の時間は一本の線香が燃え尽きるまでの時間です。だいたい20~30分です。これを何セットか繰り返します。

座禅をする中で一番大切なのが姿勢。心と体を一致させるには、良い呼吸をすることが重要になります。それで座禅をするときには結跏趺坐と言って、両足をももの上にのせる座り方をします。それができない人は半跏趺坐と言って片足を上げる座り方をします。これにより姿勢が整い、お腹から呼吸ができるようになります。

座禅は心から日々の雑念を全て追い出し、心を無の状態にすることを目的として行われます。欧米で流行っているマインドフルネスの考え方とは、根本は同じであれ、少し異なっているように感じました(マインドフルネスとは、何かの状態を作ることではなく、ただ気づきをもって頭に浮かんでくる事を観察すること と多くの実践書で説明されています)。ともかく、ここではそのように教えられました。

座禅で集中するための方法としては、数息観と言って、自分の呼吸だけに集中し、1から10までを数え続けるという方法が一般的です。目的は、思考ではなく「今ここ」にある現象に集中を向けるということなので、足の爪先に集中するでもなんでも良いのですが、呼吸が一番実践しやすいので、普通は呼吸を集中の対象にして座禅を行います。

 

さて、座禅の説明はここらへんにして、この坐禅会を通して感じたことを綴っておきます。

結果から言うと、何も、得られませんでした。何の境地にも達せませんでした。

夜と朝で結構な時間座禅に取り組みましたが、ダメでしたね。難しい。呼吸に意識を向け、浮かんでくる思考に気づいてただ観察するということを実践していたつもりですが、始めはそれっぽいものができていても、時間が経ってくると体も痛いし、思考に心が奪われがちになります。幾度と無くハッと集中の対象が呼吸からそれていたことに気づき、やり直すも、またそれていきます。

直近に起こった出来事や、明日のこと、これからのことが浮かんでくることもあれば、最近の出来事とは全く関係の無い昔の出来事、さらにはなんでいま自分はこんなことを考えていたのだろう思うような心の底に沈んでいたことが浮かんできたりもします。ちょうど夢の中に全く会っていない過去の知人が出てきて不思議な気持ちになるような、そんな感覚です。

そうしているうちに座禅の時間は終了してしまい、掃除をして、感想共有を兼ねたお茶を頂く時間になりました。参加者の感想やお坊さんの最後のお話を聞きながら、「ああもう終わってしまった。座禅する前としたあとでなにか変わったっけ?あれ、何も変わってなくないか?てかむしろ頭の中ごちゃごちゃになってないか?なんかヤバイ!」みたいなあっぷあっぷな気持ちになってしまいました。

 

会を終えて、汗でベタベタになった体と散らかった脳内を洗い流すために温泉に直行しました。温かい湯船に浸かりながら、改めて想像以上に自分の心の中が混沌としていたことを思い知りました。普段はこの混沌の状態が当たり前になっているのであまり気になりませんでしたが、座禅をしてじっくり自分の思考に意識を向けてみると、頭の中がゴミ屋敷のように無駄な思考で埋め尽くされ、整理されていないことに気がつきました。そしてそんな状態がなんだか煩わしくて仕方なくなりました。

もっと気持ちのいいすっきりとした心を保ちたい。なんでこんな状態になっているんだろう、どうしたらすっきりとした心になれるんだろうと考えて、思い至った原因があります。

それはインターネットによる影響です。今の時代は、いつでもどこにいてもすぐに膨大な情報にアクセスすることができます。またメールやSNSにより、周りの人に常に接続することができ、何もしなくても沢山の情報が流れ込んできます。これは人類にとって大発明であり、生活の効率性を高めてくれました。またSNSで繋がれば、会わなくてもその人が今何をしているのかがわかり、人と人との繋がりをずっと保っていられるようになりました。

だけど、、それによって、「今ここ」にいる感覚が凄く薄まってしまっているような気がします。SNSによって自分も他の人も、現実の場からオンラインの場へと体が半分吸い込まれてしまっているような気がします。どこにいてもTwitterFacebookを開き、オンラインの場に入り込み、現実の場から引き離されて、頭のなかがふわふわと空中に漂っているような、そんな感覚があります。

そんな環境の中で、心を落ち着けてクリアで静かな状態に保つのなんてほとんど不可能ですよね。だって、インターネットなんてない千年以上も昔の世界でさえ、俗世間の雑音から離れるためにわざわざ山奥に篭って座禅をしていたのですから。

 

そうして自分の生活を省みました。SNS大好き人間の私は、事あるごとにTwitterに投稿をし、Facebookに何かを投稿すれば「いいね」の通知がくる度にアプリを起動し、いい景色を見れば、まず感動するよりもどうしたらInstagramにあげるためのいい写真が撮れるかを考えていました。完全に思考がそちらに奪われ、体の半分以上がオンライン世界に浸ってしまっていた気がします。今まではそれが楽しかったし心地よかったので良かったのですが、座禅をしてから、そんな心ここにあらずな感覚が嫌になってしまいました。

だからといって、今の時代でインターネットに接続しないアナログ人間になるわけにはいかないので、まずは関わり方をもう一度考えてみることにしました。

そして、Twitterをやめる決意をしました。この辺の詳しいことや辞めた理由などはまた別記事にかくとして、7000ツイートくらいしていたし、あらゆる情報源にもなっていた大好きなTwitterを辞めたのです。でも今は辞めてよかったなと思っています。

 

座禅をして一週間が経って、あらゆる場面で自分の心が乱されるきっかけになるような事象が起きていることに気づくようになりました。例えば、LINEで友人から連絡が来ると、そこが起点となってあらゆる思考が呼び起こされます。それに気づくことができれば思考はそこで止まるのですが、油断していると下手すれば一日中心が奪われてしまうことにもなりかねません。また、テレビも危険です。意図を持ってテレビを見るのならいいのですが、なんとなくつけていたテレビに綺麗な人や性的な描写があらわれると、一瞬で心の中が乱されてしまいます。こんなこと書くのも恥ずかしいですが、男ってそんなもんだなあと思います。笑 

別にLINEやテレビを否定するつもりは全く無いのですが、何かに集中している時に予期せずそういったものが入ってくると心が乱されてしまうなあということです。好きなアイドルが出ているテレビを今観ようと思って観るのはいいし、目的があってLINEをしようと思ってLINEをするのはいいと思います。

 

話が座禅から少しそれました。長いからそろそろ終わりにします。

まず、座禅によって無の境地を作るのは山にでも篭もらない限り無理です。たとえ山に篭っていい感じになったとしても、俗世に戻った瞬間にまた元通りになる気がします。

なので、私がこれから目指したいのは、初めにも少し書いた「マインドフルネス」な状態です。情報が沢山入ってくることによってある程度頭の中がごちゃごちゃになるのは仕方ないとして、インターネットと適切な関わり方をし、常に自分の思考に気づくために常に意識を向け、今目の前で起きている現象に集中できる、そんな状態になりたいなあと思います。

 

座禅をやってみて、自分自身何か新しい境地を得られたというようなことは全くありませんが、自分の心の状態を知り、考え直すいいきっかけを得ることはできました。

こういう会はしばらくはいいですが笑、また忘れた頃に参加したいなと思います。