夜と霧を読んですぐにこれを書いている

友人に誘われ、二月にヨーロッパに卒業旅行に行くことになった。行先は、ポーランドウクライナ。目的は、アウシュビッツチェルノブイリだ。なんとも意識が高いと思われそうであまりぺらぺらと話すのをためらう行先だが、自分としては、ヨーロッパの中では最も行きたいと思えた場所である。

とはいうもの、それらの場所が抱える歴史に関する知識を僕は持ち合わせておらず(これが俗にいう意識高い系の傾向である...)、予習として「夜と霧」そして「チェルノブイリの祈り」を読むことにした。

 

さて、「夜と霧」をたった今読み終えたわけだが、まあ感想など述べられるわけがない。裏表紙の解説には、「言語を絶する感動」と書かれているが、それともちょっと違って、ただ「何も言葉が出ない」というほうが僕的にはしっくりとくる。

こんな奇跡としか思えない作品がこの世に残されたこと。そして自分がいまこの本に出合えたということ。それ自体が感動的だと思わされる。

本当にこんな奇跡のような作品がこれからの時代にも脈々と語り継がれていくのだと思うと、なぜだか希望に満ち溢れた気持ちになる。

同じようなことを二文に繰り返してしまったが、それほどまでに、読めて良かったと思う。

 

二年生の頃、「堕ちるところまで堕ちたい」と強く願っていた時期がある。

ある本を読んだことがきっかけであったのだが、つまりはそういう人生のどん底を経験した人にしか見えない世界があるのではないか、そういう人には僕が絶対に持ちうることのできない人間の深みのようなものが備わるのではないか、自分もそこへ行きたいという願望が湧き上がっていたのだ。

当時あれこれと妄想はしたが、結局安泰な道から外れることはできず、今に至っている。そしてこの「夜と霧」を読んだ今、あの時と同じような感覚がある。

僕がこの本から最も受け取ったもの、それはやはり、およそ非現実的な環境に置かれてこそ、「人間とは?」という人類最大の問いが深まってくるのではないかということだ。

フランクル氏の考えは、もはや悟りに近い境地に達していると感じた。実際、仏教で説かれていることと同じような話もいくつもあった。

きっと2500年前、ブッダもこれと共通するところのある、剥き出しの環境の中で悟りに至ったのだと思う。両者が辿り着いた人間への考察は、間違いなく共通するところが多い。

 

ふう、こう考えると、自分は果たしてこれからの(およそ安泰な)人生の中で、何を見て、考えることができるのだろうか。。。

 

認めたくない。こんなに弱くて、欲深く、醜い自分に絶望する。

だけど、心のどこかでこう思ってしまうのだ。

 

フランクル氏が羨ましいと。