2020年振り返り(14,518文字)

今年もあと1日で終わる。今年は本当に大変な一年だった。毎年恒例となったこの振り返り。毎年書くのが楽しみなのだが、今年はちょっと下半期が重すぎて書き始めるのが少し億劫だった。

いつもは北海道の実家で書くのだが、今年はコロナで帰省が難しくなってしまったので、おそらく一年で一番長く過ごしたであろう自宅の勉強机から。キーボードは4万円の最高級キーボードのHHKBでお送りします。

例のごとく私的な内容を含むため、本編は有料とさせて頂きます。ちなみに去年は30人くらいの人に読んでもらえてかなり嬉しかった。笑

まず1月。正直あまり記憶がない。2019年の12月にベンチャーに転職して、3月くらいまでは記憶を無くすくらいがむしゃらに働いていたと思う。ただ、当時の日記をみていると、転職してわからないことしかない中で、毎日めちゃくちゃ勉強して1月末にはすでに実務で必要なスキルの輪郭を掴み始めていたよう。我ながら吸収速くてえらい。仕事の捉え方や視座も一段上がった感覚があって、結構良いnoteを書いてた。

コンサルタントはクライアントにとって価値のある提案をしてナンボ。そのためにはまず自分の提案への執着を手放し、はからいを捨て、クライアントのありのままの声に耳を澄ませることが大事。これぞ仏教流コンサルティング

仕事以外では、PORTOでお医者さんのありありさんとコラボし仏教x医療ナイトをやったりした。これが結構楽しくて、初対面の人も含めてとても真剣に話を聞いてくれた。僕は人に何かを伝える時、何を言うかより誰が言うかが大事だと考える派で、すぐに坊さんにならずビジネスパーソンとして頑張ってる理由の一つもそのためなんだけど、前よりも初対面の人に対して言葉が届きやすくなった気がして、ささやかながら良い経験になった。

あとはよんなな会の脇さんのご講演を聴いたのも記憶に残っている。普段交流会や飲み会でしか会わないので、公の場で話を聴くのが新鮮だった。印象に残っているのが、脇さんの活動の原動力についての話。

「目の前の困ってる人をただ救いたい、その一心で自分ができることをやってきた。その結果として今大きな活動体になっているが、原点はその気持ち。」

この言葉がすごく響いて、その日から、目の前の困ってる人がいた時、もし自分ができることがあれば迷わずやる、ということを心がけるようになった。その意識がけがあってか、今年は人のお悩み相談(特に(なぜか)恋愛相談)に乗る機会がとても多かった。PORTOに一回だけ遊びに来てくれた人が「秦さんお坊さんって言ってましたよね。ちょっと悩みを聞いて欲しくて。」と突然メッセージをくれて話を聴くなんてこともあった。

僕にとって最も大きい喜びの一つは、人に頼られて、自分ができることをやって、その結果その人が一歩でも前に進めるようになることだ、と気づけたのもこの頃。これが11月から講座に通い始めたコーチングにも繋がっていく。

2月も引き続き仕事一色の日々だったが、一大イベントはなんと言っても大学時代からの親友の愛莉さんがHakaliに加入したこと。愛莉さんは前職を辞めてから次の会社選びをじっくりやっていて、僕も頻繁に連絡をとってこんな会社はどう?とか提案したりしていたんだけど、まさか最終的に自分の会社に入ってくれるとは思いもしなかった。笑 本当にベストなタイミングで社内でポジションができ、愛莉さんがそこにピッタリ適合する人材だったので、打診をしてからはトントン拍子で1週間くらいで入社が決まった。社長、取締役、取締役、社長夫人(経理)、僕、愛莉さん という人員構成に笑った。でもめちゃくちゃ嬉しかったしワクワクした。

プライベートでは、彼女と四万温泉に行った。四万温泉はまじで最高だった。この頃、仕事のしすぎか肩が凝ってじっとしていてもジンジン痛むような状態が続いていたのだけど、四万温泉のすごい歴史のある湯に浸かって風呂のふちに頭を乗せて湯に身を委ねて浮いていたら、翌日完全に凝りが取れた。これが湯治ってやつか!と思った。また酷く疲れることがあったら行きたいな。

3月も引き続き仕事。前職に営業アポ行ったのが個人的には思い出深い。役員なのにフラットに話しかけてくれる方がいて、僕が辞める時に次の会社のこととか聞いてくれて「じゃあ一緒に仕事できるかもしれないから落ち着いたら会いに来てよ。」と言ってくれていた。もしかしたら社交辞令だったのかもしれないが、馬鹿正直にアポ取らせてもらって訪問。久しぶりに踏み込む赤坂Bizタワー緊張したなあ。懐かしさより緊張が勝った。社長と意気投合してくれて、人を紹介してくれたりビジネスの取り組み検討はしてもらえて嬉しかった。

ガチベンチャーは黙って待ってても仕事は降ってこないので、上で書いた愛莉さんの入社もそうだけど、前職に営業しに行ったり、会社の成長のために自分の持てる全てを総動員して闘う総合格闘技感が肌に合って毎日ワクワク楽しく仕事ができている。

4月。この頃からコロナが本格化し始めて、仕事もプライベートもオンライン化して行った。仕事では、僕のコンサルキャリアにおいて間違いなくターニングポイントとなる、案件が始まった。Hakaliに入社して以来初めて、社長がほとんど入らず僕が一人で全てをこなすという案件で、社長からは修行してきて!ということで送り出された。某広告代理店からの依頼で、媒体社の認定パートナー制度で、優れた分析をした代理店に対して与えられる認定バッヂの取得を狙っているクライアントが、どうしても優れた分析が出せず苦戦しているので分析手伝ってくれというもの。最初、クライアントには「一緒に頑張ろうね。うん^^」とひよこ扱いされ、実際SQLとBigQueryを勉強するところから始めたわけだけど、自分が良いアウトプットを出さなければ終わる!という状況におかれると、腹が決まるというか、余計なことを考えずにクライアントへの貢献だけに集中できるようになって、すごくいい精神状態で仕事に臨むことができた。

結果、いくつか意義のある分析アウトプットが出せて、無事認定バッヂ取得。プレスリリースも3本くらい出すことができ、100点と言って良い成果を出すことができた。
クライアントの熱量も高くて、僕自身本当にたくさんのことを学ばせてもらったし、何よりチームの一員のように迎え入れてもらって一緒に目標達成に向かっていくのが本当に楽しかった。元々2ヶ月の契約のはずが、バッヂ取得後も継続発注を頂き、結局12月までご支援させていただいた。最後はOKRの策定とか来期のプロダクト戦略まで関わらせてもらって本当にありがたい経験となった。僕一人でもやれるぞ!という自信がついた。この自信は将来の掛け替えのない財産になると思う。

それからこの時期、個人的にずっと書いてみたかった「xxだった僕がxヶ月でxxできるようになるまで」というような学習エントリを書いた。

これがなかなかの反響で、Pythonコミュニティのイベント登壇に繋がったり、この記事経由でインターン生の応募が数件きたりした。

プライベートでは、昔からずーーーっと好きだったお坊さんのフリーペーパー「フリースタイルな僧侶たち」に関わらせてもらうことになった。新しく編集長になった稲田ズイキさんに誘ってもらって、新メンバーに。これは今年嬉しかったことトップ5に入る出来事だった。

4月に入ってからコロナが本格化し6月?7月?くらいまではほとんど外に出ることもなくなり、家での遊びが増えたなあ。よく覚えているのは、仲いい奴らで始めたオンライン同時映画視聴会という企画。みんなで同じタイミングで同じ映画を観始めて、終わったらZOOMをつないで感想を言い合うという会。これがなかなか盛り上がる。

ここで重めの恋愛映画を立て続けにみたことにより、自分の恋愛観が崩壊した。これまでは、付き合っている人がいたら、彼女以外の女性は骸骨だと思ってみていたというか、それは確実に言い過ぎなんだけど、性的感情を持ち得ないようにゴリゴリの理性で半ば脳内催眠をかけて他の人に目移りしないようにしていた。それが男として、僧侶として正しいと思っていたし、自分の矜恃でもあった。それがゆらがされたのは、確実に東出くんと唐田さんのニュースで話題になった「寝ても覚めても」という映画。この映画は本当に凄かった。あぁ理性じゃなくどうしても逆らい難い本能に突き動かされて燃える恋愛かっけえなと思ったしそれでこそ人間なんじゃないかとまじで思った。唐田さんの名台詞「もう戻らへん。全部捨てて。」はしばらくモノマネした。

それからは下手に理性で感情を押さえ付けることをせず、オープンマインドで過ごすようになった。結婚してから理性が崩壊して浮気してしまうよりも、付き合ってる間にオープンマインドで過ごしてそれでも好きだなって思えたら結婚する、って方がよっぽどリスクが少ないように思えたしむしろ誠実な態度なんじゃないか?と正当化した。まあ結局オープンマインドで過ごしたってだけで実際何も変わらなかったけど。笑

あ、あと会社関連で大事なニュースは、自社プロダクト「Awarefy」がリリースされた。プレスリリースはものすごく反響があって、週間ランキングでしばらく上位に入っていたくらい。Facebookの友達からもたくさんコメントもらえてめちゃくちゃ嬉しかったなあ。アプリは今時点で3万ダウンロードを突破したが、まだまだこれから。引き続き。

何やかんやコロナ禍でも楽しく過ごしてたんだなあと振り返ってしみじみ。これはコロナ関連コンテンツで一番好きだったやつ。最後裏ドラのってドヤ顔してるのがポイント。

半年を振り返り終わったところで4000文字。上半期はそんなに何もなかったなーと思ってたのに、振り返ってみると結構色々あったなあ。あと虹プロもハマった。真実誠実謙虚。

さて8月。ここから重いなあ〜〜〜。

まず軽いところからいくと、8月は色々とチャレンジしてみた月だった。一つはyahoo!の安宅さんのギグパートナーに申し込んだこと。昔早稲田の大隈塾の講義で登壇された茂木健一郎さんが話していたことが結構印象に残っていて、

何事もトップオブトップのレベルを知っておくことが重要で、まずそこを知ることで現実と最高状態とのギャップを測ることができ、そのギャップの実感がどこまでも自分を内省的にさせ、現状満足せずに上を目指し続けることができるのだ。

というような話で、データサイエンティストの山を登るのだとしたら圧倒的に安宅さん。安宅さんと一緒に仕事ができる副業募集とあれば、申し込まない手はない。というわけで、相当に気合を入れてエントリー資料を作り込んだ。200倍以上の倍率だったそうで、結果はダメだったが、また募集があれば申し込み続けたいと思う。それからACCヤングコンペに参加してみたりもした。博報堂でコピーライターになった後輩に誘ってもらって3人チームで出場することになった。代理店時代はデジタル広告の営業だったので、クリエイティブの仕事をしている人とは縁遠かったのだが、広告賞への憧れはずっとあって、良い機会だと思って参加してみることにした。優秀な後輩たちとクリエイティブの脳みそを使う良い経験になった。こちらも結構頑張ったが結果はついてこなかった。でもコンペのやり方はわかったしまた余裕ができて機会があれば参加してみたいと思う。あとは、熱海にワーケーションに行ったりした。地元の人たちとの交流がたくさんできて充実してたなあ。SNSだけ繋がっていたお寺の方がテラワークなるお寺でテレワークする仕組みを作っていて、そこに遊びに行ったりもした。

そして8月最大のイベントは、1年半付き合っていた彼女と別れたこと。大好きだったけど別れる決断をして、正直マジで辛かった。嫌いになって別れる方がよっぽど楽だと思った。別れた原因は、方向性の違い。これに尽きる。先のことはできるだけ決めず選択肢を多く持っておいて、その時々に最善の選択をとって生きていきたい僕と、先のことはきっちり決めて不安要素をできるだけ無くして自分のキャリアを着実に歩んでいきたい彼女。夜な夜な腹を割って話し合いを重ねたけど、どれだけ話しても一向に平行線だった。これだけあらゆる可能性を検討して議論し切ったので、かえって諦めはつけることができた。こんだけ話しても擦り合わないのだから仕方ないね。お互いの歩みたい人生を歩もうぜ!と最後は笑顔で別れた。

このとき初めて痛感したのは「ああ、人生って僕だけのものじゃないんだな」ということ。これまでは自分が生きたいように生きればいいと思っていたのだけど、どうやらそれだけではダメらしい。何かを得るためには何かを捨てなければならない。誰かと生きていくというのはそういうことなんだと思う。それは自分の両親に対してもそうで、遅まきながらやっとそういうことに気付けたというのが今年の大きな学びの一つ。僕の人生でもあるけど、子の人生は親の人生でもあるのだ。関わり合う人たちの人生を考え折衝しながら、その中で最善だと思える選択をとって行けたらいいなと思った。

彼女との関係においては、惜しいなという気持ちがある。正直なところ、マンネリはあった。そのほか思うところもあって、別れるかもという予感はしていた。しかしいざ別れ話になると、めちゃくちゃ大好きだという気持ちが湧き上がってきた。彼女がやりたいことを真剣に話してもらえばもらうほど、ますます魅力的に感じていった。でも仕方ない。お互い自分がまだ何者でもない中で、自分の人生よりも相手と一緒にいることを優先できなかったという話。僕が理想的だなと思うパートナーシップの形は、お互い自分の人生はあるけども、それ以上にその相手と一緒にいたいと思えて、一緒にいるために、お互いが歩み寄って、その中で最善の人生の選択をしていくこと。そこまでの関係にはなれなかった。まだまだ未熟である。

別れ際でミスったなあと思ったのは、別れて少し経ったあと、彼女の荷物を受け渡すのに自分の家まできてもらったこと。大手町の駅ホームとかで渡せばよかったものを、「最後に兆徳(地元の行きつけの中華)行こうぜ。」とかこつけて千駄木まできてもらった。兆徳でいつもの揚げ餃子とチャーハン、黒胡椒と山椒の唐揚げを頼んでビールで乾杯。クァー!といつも通り至福の表情を浮かべる彼女をみて、目眩がした。これはミスったと思った。せっかく前向きだったのに、情が沸いてしまうではないか!!!

家に帰ってお茶を煎れて、くつろいだ。そのまま終電が過ぎればいいのにと思ったが、まだ22時だった。一瞬油断をして沈黙が流れた瞬間、「そろそろかな。」と彼女が一言。終わったと思った。これで本当に全て終わってしまう。そう思うと泣けてきた。彼女の前では泣いてなかったけど流石に耐えられんかった。家から駅までの道がこれほど短いと感じたことはない。亀ほどトロく歩いたり、靴紐を結び直したりしてみた。待ってくれた。公園のベンチで座って、少し話をした。「本当に感謝してるよ。」なんて一番聞きたくない言葉だった。終わりを感じてしまうから。公園の電灯に照らされた彼女の横顔が本当にきれいだった。涙に濡れた長いまつげと大きな目に光が反射し、キラキラと輝いていた。こんなに可憐な生き物にはもう出会えないだろうなと思った。

別れた後の記憶はあまりないが、たくさんの友達に支えてもらったと思う。Awarefyに「友達の優しさに触れた9月」と書いてあった。笑 優しさとは何だろうか。僕が思うに優しさとは、相手を大切に想う気持ちそのものだと思う。優しい、という形容詞には、xxしてくれるから、という理由がセットになることが多いが、それはあくまで相手を大切に想う気持ちが形となって表れたものだ。必ずしも何かしてあげなくたって、優しさは届けられる。そう気づかされたのが失恋直後の日々。少々込み入った別れ方をしてしまったので、聞いても何と声をかけたら良いのかわからなくなってしまうようで、誰に話しても皆「ううううう…」と苦悶するような反応だった。ただ名前を呼んでくれる人、とりあえず肩をぽんぽんしてくれる人、お疲れ!と言ってくれる人。上手い言葉をかけてくれた人は一人もいなかった。でも僕にとってはそれで十分だった。きれいな言葉はなくとも、僕を元気付けようという気持ちは十二分に伝わってきて、それだけで本当にありがたかった。言葉で飾らない無加工の優しさに触れて、少しだけ世界が柔らかくなったように感じる。

9月の誕生日は友達とキャンプに。奥秩父で穏やかに過ごした。26歳になっての変化は、ハゲてきたこと。

上の記事でも書いたが、自分の体で思い通りにいかない部分が出てきて初めて「ああ、若さって永遠じゃないんだな。」と仏教の根本の思想である「生老病死」を肌で体感した。「自分の将来は明るい。まだまだ時間もあるし何でもできるぞ!」というスタンスから、「老いてきてるぞ。先に無限に時間があるわけじゃないぞ。」というスタンスにシフトしたのは大きな進歩だと思う。

それから、今年の誕生日は珍しく高校からの腐れ縁の大石にも祝ってもらえた。シェアハウスのカグラボの人たちは、メンバーの誕生日にいつも全力で、ほぼ毎月のペースで誰かしらの誕生日会をやるのだが、こと僕の誕生日に限っては僕がだいたい彼女とどっかに行ってるのでしっかりと祝われたことがなかった。今年の誕生日は僕が彼女と別れたからなのか、大石が高校の同級生を集めてサプライズビクドン誕生会を開いてくれた。まあ段取りは悪く(笑)、ビグドンが混んでて入れず、結局近くの中華屋で爆食いしてシメに歌舞伎町二郎にいくという謎の会になった。歌舞伎町二郎を食った後、最後まで残った3人で腹キツくて死にそうになっててマジでバカだった。笑顔で手を振りながらチャリで帰る大石と大吉をみて、こいつらかわいいなあと思った。これが僕がみた大石の最後の姿になるなんて思うわけがなかった。

ビクドン会から数日後、大石たちが事故ったという連絡がきた。最悪の事態にはならないだろうと信じていたが、夕方大石の訃報が届いた。全く理解できなかった。カグラボ民のふうことたまこと合流して、代々木公園で寝そべって空を眺めた。よくわからなくて、涙も出なかった。お腹がすいたのでパスタを食べて、適当に恋話などをして解散した。帰り道、ニュースをみた札南の同級生からこれほんと?とLINEが入っていた。何人かと電話して、起きたことを説明していたら、涙が出てきた。人に説明するためにはいやでも事実を自分の中に入れて客観的に話さなきゃいけない。それで自分自身も受け入れなきゃいけなくなったということだと思う。

翌日、火葬に立ち会うため岩手に行くことになった。初めはあまりに突然のことだったので、事故があった岩手で遺族のみで火葬をするとのことだったが、中学の頃の社会の先生でもある大石のお母さんに連絡をして、どうにか行かせてもらえるようにお願いした。カグラボにあった大石が大切にしていた料理道具や、大石の誕生日会で撮った友達との大量のツーショットチェキなどを持って新幹線に飛び乗った。事故の車に同乗していた彩乃、先に駆けつけていた千葉ちゃんと合流した瞬間、肩を抱き合って泣いた。この二人には本当に支えられた。特に事故の後すぐは、大石と一番時間を過ごしていたであろう彩乃が気丈に振る舞ってくれてとても支えられた。
飲むか!と宿の近くの居酒屋に言って、ゲラゲラ笑っては泣いて、また笑っては泣いて。、と哀しくも愛おしい時間だった。店員さんからしたらおかしな集団だったと思う。

翌日、大石と対面した。いつものように寝てるような穏やかな顔だった。最のお別れをして、火葬が始まった。火葬の最中、カマキリが現れたことは、今思っても不思議な出来事だった。後日、以下の文章にして大石と親しかった人にはシェアした。

慎治さんがカマキリになったかもしれない話
慎治さんの火葬中に起きた出来事のお話です。とても印象に残る出来事だったので、シェアさせてください。
慎治さんが小さかった頃のこと、祖父が亡くなり、慎治さんが今眠っているのと同じひばりヶ丘の墓地で法要が行われたそうです。当時北海道に住んでいた慎治さんは生き物が大好きな少年だったそうで、「東京に行ったらカマキリに会えるかな??」と北海道には生息しないカマキリに会えるかもしれない滅多にない機会に胸を踊らせていたそうです。
法要が執り行われ、お墓に納骨をし終え、皆で帰ろうとした時のこと、なんと本当にカマキリが慎治の目の前に現れたのだそうです。ずっと会いたかったカマキリが出てきて、慎治さんは大はしゃぎ。
その時ご家族は「きっとおじいちゃんが慎治のためにカマキリになって出てきてくれたんだね。」と話し、それからカマキリを特別な生き物として思うようになったそうです。
ーーー
そして今回、火葬が始まって1時間半くらいが経った時のことだったでしょうか、火葬が終わるのを待合室で待ちながら、ご家族と私たちでお話をしていた時のことでした。ふと後ろのテーブルに目を遣ると、机の角っこに、茶色い小さなカマキリが立っていたのです。私たちはお祖父さんのお話を知らなかったので、「おお、カマキリだ。」というくらいの反応だったのですが、ご家族はそれをみた瞬間に慎治さんだと確信したようで「慎治だ。慎治が出てきてくれた。」と泣き崩れられていました。
そのカマキリはテーブルからポトリと落ち、キョロキョロとあたりを見渡しながら歩き始めました。はじめは誰もいない方向に歩いていたのですが、お母さんが「慎治、こっちだよ。」と呼びかけると、一瞬ピタリと静止したあと、お母さんの方に向き直り、ゆっくりとお母さんの手の中へと歩いて行きました。そしてお母さんが両手で優しく掬い上げ、皆でその手を優しく包みました。私たちは、よくわからないけれど、とっても不思議なことが起きていると思いました。
火葬は岩手の紫波中央という場所で行われたのですが、見渡す限り田んぼが広がるとっても気持ちの良い場所でした。慎治カマキリもここなら楽しく生きていけそうだね、と田んぼで放してあげることにしたのですが、何度やっても放した手を伝って、体の方へとよじ登って来るのです。まるで「まだ別れたくないよ!」と言っているかのようでした。それを見ていたら、本当に慎治さんにように思えて涙が出てきました。何度か別れを惜しんだあと、最後はお父さんの手から放して、またね、とお別れをしてきました。
あまりに不思議な出来事だったので、私たちも半信半疑の気持ちでいたのですが、なんでしょう。その慎治カマキリを手にとったときに、「ああ、大石くんはいるんだなあ。」と、ちょっと安心した気持ちになったんです。きっと、ここに来たら、また会えるんだと。
ーーー
火葬を終えて東京に戻ってから、この話を慎治さんの友人たちに共有しているのですが、驚くことに、各地でたくさんのカマキリ目撃情報が上がっています。
きっと、みんなのところに順番に回っているんだと思います。そのうち来ると思うので、皆さんもカマキリを見つけた時は、慎治さんだと思って優しくしてあげてくださいね。
冬の間は寒いから、どこか暖かいところを見つけて寝ちゃってるかもしれませんが。

火葬を終えて盛岡からの帰りの新幹線。僕ら3人の気持ちはすでに前をむいていた。散々泣いたからというのもあるが、カグラボで初七日の法要をやろうと決めていたから。あの大石が、お別れの場もなくみんなの元からいなくなってしまうなんてあり得なかった。あれほどたくさんの人と濃ゆいコテコテの関係を築いていたやつはいない。そんなやつが急にいなくなったら、立ち直れなくなってしまう人がたくさんいると思った。そこでご遺族にお願いして、大石くんの一部をカグラボに連れて帰らせてもらっい、初七日のタイミングでお別れ会を開かせてもらうことになった。僕がお坊さんとしてしっかりお参りをするという条件付きだった。

カグラボに帰ってからは、みんなに起きたことを説明したり、会の準備をしたり、お別れ会の周知をしたり、初七日までは仕事も1週間休ませてもらって大石のためだけに時間を使った。正直やることがあって良かった。大石のそばにいれる大義名分がなければ本当にしんどかったと思う。なんでもいいから、そばに居て離れたくなかった。僕は引っ越してからカグラボにいく頻度はそんなに多くなくて、正直みんなとの関係も少し薄れていたのだけど、みんなでお別れ会を作り上げていく中で、本当に素敵ないいやつが集まっているんだなあと改めて思った。各人が強みを生かして自然に役割分担をして、会を作り上げていった。大石はこういう場をじっくりと時間をかけて育んでいたんだなあと思うと、おい何でいなくなっちゃうのよー。と思うしかなかった。

大石にはよく「俺が死んだら葬式秦頼むな!」と言われていた。OK!と軽く返事をしていたのだけど、まさかこんなに早くその時が来るなんて思わなかったよ。準備できてないわ!自分一人で葬儀を執り行うのは初めてだった。本当に務まるのか不安だったけど、父にも練習に付き合ってもらったりして何とかやり遂げることができた。まあ、読経中に彩乃がお焼香を上げながら嗚咽しているのを横目で見て堪えきれず、途中からは泣きながらやるしかなかったのだけど。あとでみんなに話を聞いたら、ゆっくりと向き合える時間になって良かったと言ってもらえた。手応えというと少しおかしいけど、お坊さんとして、葬儀をする意義を身を以て体感することができた。北海道のお寺では父が大石家のために法要を執り行ってくれて、北海道と東京どっちもで法要をすることができて、僕としては本当にありがたく嬉しかった。

お別れ会には延べで250人近くの人が訪れた。大石とはFacebookの共通の友達が455人もいるので共有の懐かしい友人ともたくさん再会した。みんなと大石の話をしていて驚いたのは、一人一人の中に、僕が知ってる大石とは全然違う大石の姿があるということ。聞けば聞くほどに僕が知らなかったあいつの姿が見えてきて、そのどれもが胸を打たれる話ばかりで。あいつの底知れぬ懐の深さに素直に心から尊敬の念を覚えた。

僕にとっての大石は、友達である以上にライバルだった。僕は一年浪人したから大石より一年後に早稲田に入ったのだが、彼はすでにたくさんの友達やコミュニティを作っていて、僕はそこに迎え入れてもらう形で大学生活を始めることができた。僕も大石も意識高い大学生だったので、社会的な活動や企業でのインターンのこともたくさん教えてもらった。熱く語ることも多かったし、喧嘩もよくした。大石に追いつけ追い越せで学生生活を頑張ってたきたところがある。

その中でもあいつにどうしても勝てなかったのが、優しさの瞬発力だ。誰かが困ったり苦しんでるとき、脊椎反射で言葉をかけたり行動ができる、その姿が本当にカッコ良かった。し、少し嫉妬してた。人に大事なことを伝えられて、打算とか自分のことよりまず人のためを思える、マジでオンリーワンの男だった。

正直大石とは合わないところも多かったし、ちょっとムカついてた。僕が先に卒業してからもう2年くらいまだ学生をやってて、何やってんだよ、早く卒業してこっちこいよと思ってた。カグラボにあまり行かなかったのは、そういう大石に会いたくなかったというのもある。今年やっと卒業して、4月から社会人になってからは、またよくお互いの話をするようになって、頻繁に会って語る機会も増えていた。直近も47都道府県に別荘を作る企画を始めて、これは長期的なプロジェクトになるな、なんて話してた。こんな感じでジジイになっても遊んでんだろうなーと思ってたんだけど。。。3ヶ月経って、今こうして振り返ってみても、嘘じゃん??と思ったりする。あいつが死ぬなんてことがあるのかな。

事故のあとすぐの頃は、初七日まで走りきればきっとこの気持ちにも区切りをつけられて、これまで通り仕事に打ち込めるようになるはず、と思っていたが、全くもって無理だった。意味づけも何も不可能。今もやり場のない気持ちを抱えながら過ごしている。

いやー。やっぱりあいつのこれからの人生を思うと、悔しくて仕方がない。絶対にすごい人生になってたと思う。僕が密かに夢想してたのは、お互いに何かの領域で突出した成果を出して、有名になって、そんな二人が旧友としてメディアに取り上げられて偉そうに対談すること。昔は俺たちこんなバカな学生だったんですよー、なんて話したかった。なのになんだよ。まだ何も成し遂げられてないじゃないか。どうすんだよ。これから自分だけの人生を生きられなくなったじゃないか。俺ばっかりガンガン生きたらずるい感じになったじゃん。全く。これからは、大石の分の人生の続きも生きられたらなと思っているよ。

この出来事を通して、今まで自分が信じてきたこと、思考、価値観、全てが覆っていった感覚がある。端っこのオセロがひっくり返った結果、隣のオセロから順に全てひっくり返っていくような。

前提が変わったんだと思う。老人になるまで生きることを前提とした世界から、いつ死ぬかわからないということを前提とした世界へ。あんなに一生懸命やっていた仕事も一時的にだがどうでもよくなってしまった。流石に新しい案件のキックオフアポでクライアントの目の前で寝てしまったのには自分でも驚いたけど(本当にすみません)。。。仲間たち皆がそうなってた。こんなに辛いことに向き合わなくちゃいけない中で、それ以外のことは何をしたって虚しく感じた。

それまでの僕の仕事に対するモチベーションの大半は「個人の成長」だった。成長とは、すなわち将来への投資だ。将来やりたいことができた時に全力で取り組めるように力をつけておきたいという気持ち。その思いでガムシャラに働いてきた。でもこのことがあってから、そんな働き方が急に怖く感じるようになった。将来への投資って言ってるうちに死んでしまったら何にも残らないじゃないか。スキルや経験は、身にまとう鎧にはなるけど、血肉にはならない。もっと自分の人生に積み上がっていくようなことに時間を使いたいと思うようになった。自分の人生に積み上がるとは、今日死んでも後悔しないくらい魂を燃やせることに時間を使うということ。

その気持ちを正直に社長に伝えたら、理解してくれて、来年からは新規事業の仕事を兼務させてもらえることになった。この一年、本当に社長にはやりたいようにやらせてもらったなあ。本当に、感謝しかない。この恩は仕事で返すしかない。

かなり長くなってしまった。まだ書きたいことがあるので書く。10月の後半は、心を癒すために伊豆にワーケーションに行った。今年、コロナでしんどくなった時も、彼女と別れた時も、大石がいなくなった時も、ずっとそばにいてくれた親友がいる。その子がいなかったらマジで精神崩壊してたかもしれない。伊豆でまったり過ごして永遠と夕日を眺めたり、目の前一面に海が広がる露天風呂に入って夜風に吹かれたり、建物の屋上に上がって星を眺めたりして、心からリラックスすることができた。

今年コロナになってよかったことの一つは、ワーケーションができるようになったことだ。ワーケーションは本当に良い。そのあと逗子でもワーケーションしたのだが、ワーケーションの良さについては違う記事で熱く語った。

あと、この時、もう一つとっても大きな出来事があった。クローズドなこのnoteにすらまだ書けないようなことだけど、来年には良い出来事として書けるといいなあ。

11月、12月も瞬く間に過ぎていった。カグラボには週一くらいでまた顔を出すようになって、みんなに遊んでもらっている。特に千葉ちゃんと彩乃には本っ当に助けられた。12月、3人で慰安旅行として山梨に行った。富士急で遊んで、河口湖の湖畔のちょっといい旅館であえて露天風呂付き客室を取って、みんなでお風呂に入りながら富士山を眺めた。カグラボを知らない人はあまり理解できないかもしれないが、シェアハウスで住んでた仲間たちはそれくらい家族のような存在。千葉ちゃんがこの前「カグラボという絶対に安心して帰ることのできる場所があるから、これから大きな挑戦できると思う」と言っていた。そんな感じ。大石くん、卒業もせずに大学に7年も通って一体何やってたんだと思ったら、最高の場所を作ってたんだね。

余談。山梨の山の中にめちゃ素敵な骨董品屋さんがあって、彩乃が行ってみたいというので訪ねてみたのだが、運悪く定休日だった。ただ、軒先にお皿が並べられていて、それだけは自由に購入していいようだった。結構いいお皿がたくさんあったのだが、彩乃は青色の中華風の湯呑みとお皿をセレクト。聞くと、カグラボにも同じ柄のどんぶりがあるらしい。これで三点セット揃った!と喜んでいる姿が可愛かった。その次の日カグラボに行ったら、そのお皿に焼売が乗せられて、大石の仏壇の前にお供えしてあった。本人には何も聞かなかったけど、中華のお皿といえば焼売ということで、焼売を買って大石に食べさせてあげてたのだろう。なんだかそれをみた瞬間、大石は幸せ者だな!と思ったのだった。たったの26年の人生でこんなふうに思ってもらえる人ができるなんて、やっぱり君はすごいよ。そして彩乃も。尊い

さて、さすがにそろそろ締めようと思う。本当に大変な一年だった。だけど間違いなくこれからの人生において転機になる一年だった。今年一番の学びは、自分に期待しなくなったことかな。ハゲてきたこと、そして親友の死によって、自分の生が永遠でないことを自覚し始めた。仏教の一切皆苦の意味が始めて附に落ちた。生老病死という自分の力ではどうにもならない事実を痛感し、死というものをありありと感じて、初めてこの限りある生が輝き出す。そんな感覚がある。どう生きてやろうか。焦らず気負わず、誠実に考えていきたい。

来年に向けて、新しい種もある。
ライフワークになるかもしれないと思い切ってコーチング講座を受け始めたが、今のところ最高に楽しい。基礎が修了したので、来年からちょっとずつ実践していきたいと思っている。
あとは、札南の先輩で、北海道の大自然で行うオーダーメイドのガーデンウェディングの事業を手掛ける方に頼ってもらってデジマのお手伝いをさせてもらったり。そのほかにも来年から個人で受ける仕事がある。
それから、春から関わっているフリースタイルな僧侶たちのフリーペーパーがついに完成し、1月中頃から配布開始予定。マジで最高に面白いものができたので配るのがとても楽しみ。
会社ではマネジメントのポジションになって、普段の業務に加えてマネジメントという新しい仕事も始まった。Awarefyでも某県庁との実証実験の担当をさせてもらったり、新規事業も少しずつではあるが形が見えてきている。
あと、この前歩いていたら、心からやりたいと思えることを閃いた。11月からずっと心からやりたいと思えることを探していたけど、これだと確信に近いものを感じている。来年から少しずつ始めて行くつもり。

総じて前向き!過去最長の14,000文字超の振り返りになった。笑 

最後に来年の目標を決めて終わりにしたいところだが、なんとなく今は目標とか必要ない気がするので、一旦決めずに行こうと思う。

本当に色々会った一年だったけど、関わった全てに感謝をして、来年を迎えたいと思います。ありがとうございました。

終わり。