退屈 の考察を通して生き方に関して新たな示唆を得た

急に思いついたのでメモ

 

この前暇と退屈の倫理学という本を読みました。

めちゃくちゃおもしろいなー、読み応えあったぜ・・と思いつつも、

あれ、どうも退屈というものが自分の中で落ちてこない。

え、みんなそんな退屈してんのかな?俺は全然退屈してないけど。

 

と、そんな気持ちでした。

 

だったのですが、ふと思いついたことがあります。今日は本を読んだ感想と、そこから新しく感じたことについて書き残しておきます。

 

まず本の感想。読んですぐは、自分は退屈してない感覚があって、腹落ちしない感があったのですが、やっぱり自分も本にある通り、人間として退屈というものを感じていることに気がつきました。

そしていま退屈じゃないと感じていたのは、無意識に退屈の状態を自覚し、そうならないように行動しているからだということに気がつきました。

 

ところで一旦この退屈というものについて説明しておきます。

それは「刺激がない状態」です。無風。 

 

さて、僕がさっきふと思いついたこと。これが自分の中で結構大きな発見だったんです。それは何か。

僕は、人間の目指すべきは「幸せ」だと思っていました。

どんな状況であれ、その人が幸せだと感じられていれば、それで良いと。

これからの未来、色んなパラダイムシフトが起こるだろうけど、まず世界が目指すべきは個人の幸福であり、そこは絶対に踏み外してはいけないところだと思っていました。

その人が幸せなら万事OK!そんなふうにさえ思っていました。

 

しかし、気づきました。

 

幸福=退屈の解消 ではないということに。

 

幸せという概念と、退屈という概念は全く別次元に存在しています。

そしてどちらか一方を満たしても、もう一方も満たされない限り、本当の理想状態にはならないのではないでしょうか。

つまり、周りから見ても自分から見ても「本当に幸せだなぁ」と思っている人でも、そういう状態がずっと続くと、「退屈」という厄介な感情が頭をもたげてくるんじゃないかと。「退屈」な状態では「幸せ」だとは言えません。

同様に、「退屈」を解消すれば幸せになるかといえば、そうともいえない気がします。

退屈を解消するには刺激が必要です。でもその刺激というのは、感情的なプラスマイナスは関係がなく、とにかく刺激なのです。

それゆえ人は、自らシビアな状況を望んだりします。

 

なんかいろいろわかってきました。

 

人が同じところに安住せず、向上心を持って高みを目指したり、リスクのあるチャレンジをしようとするのも、「退屈」を解消するためなのではないでしょうか。

 

僕は結構、幸せ とか、生きる意味 とか、社会的価値 とかをベースに社会を捉えがちだったので、何かにつけて「それどこに向かってるの?」とか、「何モチベでやってんの?」とか、「やってて何が嬉しいの?」とか思ってしまうたちだったのですが、

 

この「退屈」という測りで捉えてみると、上に書いたようなことでも結構腑に落ちるなぁと。

 

全ての行動理由を深掘りした先、人間の全ての行動原理はこの「退屈」という感情を解消したいという動機から始まっているような気がします。

 

これ、自分の感情でも同じで、自ら進んで厳しい選択をしたり、できる限り上を目指したいと思ったりするのですが、

これも意識せずに退屈というものを避けようとする気持ちの表れなのかもしれません。

 

ふーむ。

 

では人類が目指すべきは、刺激を受けやすい社会 ということになるのでしょうか?

 

んー、なんか違う気もする笑

 

幸せと退屈回避のバランスなんですかねー。うむ。

 

この退屈という感情とどう付き合っていくのかという問に対する絶対的な答えは存在せず、各々が模索していくものなんだろうと思います。

 

まあ僕は、最後に「いい人生であった」といえるような人生を送りたいですね。

 

 

これ以上続けると無限にだらだら書いてしまいそうなので、今日はこれくらいで。

 

また書きたくなったら追記します。(←追記しました)

 

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 ところで、もしかしたらお釈迦様は、この退屈という感情を

「人間が逃れることのできない無限の苦しみ」と呼んでいたのかもしれない と思いました。

そうなると、やはり人類の目指すべきは “涅槃”・・・!!!

僕には涅槃がどういうものかわからないし、今の世の中でそこを目指すのはより一層難しいとは思いますが、

この仏教の教えから、これからの社会を良くしていくヒントになるようなエッセンスを抽出できないものですかね。