夜と霧を読んですぐにこれを書いている
友人に誘われ、二月にヨーロッパに卒業旅行に行くことになった。行先は、ポーランドとウクライナ。目的は、アウシュビッツとチェルノブイリだ。なんとも意識が高いと思われそうであまりぺらぺらと話すのをためらう行先だが、自分としては、ヨーロッパの中では最も行きたいと思えた場所である。
とはいうもの、それらの場所が抱える歴史に関する知識を僕は持ち合わせておらず(これが俗にいう意識高い系の傾向である...)、予習として「夜と霧」そして「チェルノブイリの祈り」を読むことにした。
さて、「夜と霧」をたった今読み終えたわけだが、まあ感想など述べられるわけがない。裏表紙の解説には、「言語を絶する感動」と書かれているが、それともちょっと違って、ただ「何も言葉が出ない」というほうが僕的にはしっくりとくる。
こんな奇跡としか思えない作品がこの世に残されたこと。そして自分がいまこの本に出合えたということ。それ自体が感動的だと思わされる。
本当にこんな奇跡のような作品がこれからの時代にも脈々と語り継がれていくのだと思うと、なぜだか希望に満ち溢れた気持ちになる。
同じようなことを二文に繰り返してしまったが、それほどまでに、読めて良かったと思う。
二年生の頃、「堕ちるところまで堕ちたい」と強く願っていた時期がある。
ある本を読んだことがきっかけであったのだが、つまりはそういう人生のどん底を経験した人にしか見えない世界があるのではないか、そういう人には僕が絶対に持ちうることのできない人間の深みのようなものが備わるのではないか、自分もそこへ行きたいという願望が湧き上がっていたのだ。
当時あれこれと妄想はしたが、結局安泰な道から外れることはできず、今に至っている。そしてこの「夜と霧」を読んだ今、あの時と同じような感覚がある。
僕がこの本から最も受け取ったもの、それはやはり、およそ非現実的な環境に置かれてこそ、「人間とは?」という人類最大の問いが深まってくるのではないかということだ。
フランクル氏の考えは、もはや悟りに近い境地に達していると感じた。実際、仏教で説かれていることと同じような話もいくつもあった。
きっと2500年前、ブッダもこれと共通するところのある、剥き出しの環境の中で悟りに至ったのだと思う。両者が辿り着いた人間への考察は、間違いなく共通するところが多い。
ふう、こう考えると、自分は果たしてこれからの(およそ安泰な)人生の中で、何を見て、考えることができるのだろうか。。。
認めたくない。こんなに弱くて、欲深く、醜い自分に絶望する。
だけど、心のどこかでこう思ってしまうのだ。
フランクル氏が羨ましいと。
ガキ使のブラックフェイス騒動について
最近は議論が湧きおこっているニュースに関しては情報収集をして自分の考えを持つようにしているが、そういう考えもちゃんと記録に残しておこうと思う。
今回はガキ使のブラックフェイス騒動について。
絶対に笑ってはいけないシリーズ、今回のテーマはアメリカンポリスだった。
問題になっているシーンは、毎年恒例となった5人それぞれがその年のテーマのコスプレをしていく序盤のシーン。
それぞれアメリカンポリスのコスプレをしていくんだけど、最後の浜田だけがエディ・マーフィ主演の映画「ビバリーヒルズ・コップ」のコスプレとして、顔面黒塗で登場。一応アメリカンポリスだけど、「浜田だけなんで黒人やねん、しかもメイク細かすぎやで。耳元までちゃんと塗られてるやん。」みたいな感じでオチが作られていた。
これに対して日本在住の黒人作家マクニールさんが厳しく反応。
これが拡散されて議論を呼ぶこととなった。ハフポストに寄稿された記事がこちら。
さらにフローレンスの駒崎氏はこれを「人権後進国」と批判。この意見にも賛否両論集まった。
僕は一連の騒動を見て、上記批判がピンとこない感覚があった。
批判の論調は、
「ミンストレル・ショーという黒人蔑視的なショーが1800年代に欧米であったが、これが国際的に批判されたことに端を発し、今では世界の共通認識として黒塗りはタブーとされている。
だから日本で黒塗りがされることが、いかに国際的に良くなく、また黒人を苦しめ、また日本の無知=人権後進国たるかを世界に知らしめていることになっているか。」
ということだったのだが、どうもこれがすっと入ってこない。とにかくタブーだからダメです と。なんで昔の映画の役を再現しただけで批判されるのか。
特に駒崎さんのブログはとにかく批判の言葉が厳しく、且つ話を極大化させ日本が「人権後進国だ」とまで言っており、
なんだか完全に批判の立場になりきれていない自分まで批判されたような気がしてもやもやした。
過敏すぎるんじゃない?と思った。
加えて駒崎さんは、広島の被爆者を笑いのネタにされたらどう思う?と例に挙げていたのだが、つまり黒人を被爆者と同種の、損害や障害の悲劇のもの として捉えているの?さすがにこれは論外。
黒塗りしている→人種差別だ と、こういう脊椎反射的な反応こそ、人種の“違い”を人種“差別”へと転化させ、いつまでたっても過去にあった差別をそのまま差別として残し続けてしまっているのではないかと思う。
これから新しく生まれてくる人は、人種差別があった時代ではなく、新しい時代を生きる。それなのに、過去にこういう過ちを犯したからこれは駄目なことだと、過去の過ちを基準に考えていたら、いつまでたってもその過去の過ちから逃れることができないじゃないか。
新しい時代には、新しい価値観を作っていく必要がある。
例えば、人の移動が流動的になり、国にいる人種も多様化、且つ奴隷制度のような階層社会は薄くなり、日本育ちの黒人もたくさんいる。そんな時代には、黒人の存在はごく当たり前で、肌が黒いというのも個性として当たり前に受け取られているかもしれない。
そういう新しい価値観が生まれつつある中で、黒塗りは歴史的にタブーだ!とか言われても、そんなの知らんし、逆にむしろ黒人ってそんなに庇われるべき存在なの?かわいそうなの?と思ってしまうのではないだろうか。もちろん、黒人の歴史を知ることは大切だとは思うけど。
学校の人権教育でも、そうだったようにわざわざ過剰に取り上げることで、今まではなんともなく差別とは感じずに接してきたことに対して差別意識が生まれるということは考えないのでしょうか…?
— Lions first (@Lions717victory) 2018年1月5日
問題を指摘した津田大介さんのツイートに対するリプ。今日が成人式らしい青年のコメントだけど、これが今の若い人の感覚だと思う。
さて、僕も今回問題となっているシーンを見た。このシーンがありかなしかで言われたら、絶対無し。不快。
黒人の友達はいないし、人種差別がいかなるものなのかは想像に及ばないけど、
浜田が登場した後、松本が「嫌やわあ、ずっとはきついわあ」という発言をした。これはひどい発言だと思った。
そもそもオチとして笑いを取ろうという姿勢がだめだし(モノマネで笑いを取ってるんじゃなくて、黒塗りで嫌そうに登場したことで笑いを取ってるから)、そのあとの松本の発言は、黒い肌の人と一緒にいることが嫌だわあ と言ってるように聞こえた。これは黒人が悲しい言葉だと受け取っても無理はないと思った。
批判すべきは絶対にこっち。オチにしたことと、「嫌やわあ」との発言。これは身体的特徴を、笑いものに、さらには嫌悪の対象としているから。
黒塗りをすること自体は、個人的には、そんなに問題かなあと思う。エディマーフィーのモノマネを顔黒く塗ってやるの、ダメ? 少し、窮屈に感じる。
だけど、津田さんの紹介していたドキュメンタリー見て思った。こういうふうに顔を黒塗りして黒人に扮すること、黒人の風貌をおもしろいと思ってしまう自分もどこかにいる気がする。(今回のでは笑ってないけど)
「僕らに差別意識ないですから!」と思ってても、これを笑いとしてなんら違和感なく見ている時点で、差別的な意識をどこかに持っていることを自覚した方がいい。
黒人は存在がオチでもないし、みんながみんなデニスとかアントニーみたいな愉快な人でもない。
自分らと同じ人間だ。そういう気持ちを常に持って向き合う必要があるなと思った。
最後に…人種とか、文化の違いは、ポジティブな笑いに変換できると思う。
そういうネタが世の中に受け入れられていったら、人種差別が「人種の個性」として昇華できるのではないだろうか。
なんでもかんでもタブーにするのでなく、また、歴史を知れ!と上から否定するのでもなく(んなこと言われたって何割の人が勉強しようと思う?)、みんなが共感できる形で「これは良くないことだね」と理解を深めていくことが、結局一番の近道なんじゃないかなと思う。
先入観の少ない僕らだからこそ、vsの構図でなく、weの関係で皆が住みやすい社会を作っていけるのではないだろうか。
ちなみに、ベッキータイキックは、目を背けたくなるくらい嫌悪感覚えた。
ああいうのが笑いとして消費されてるのは、マジでやばい。
1年の振り返りをしてたら8000字超えた
特に12月は一瞬で過ぎ去り、2017年も残すところあと1日となってしまった。
Facebookを見ると、色んな人が1年の振り返りをしているが、僕もしようと思う。人に見せる用ではないので記録としてだらだらと残す。
まず1年前の今頃ってどんな感じだったかなと思い、振り返ってみたのだが、あんまり記憶がない。色んなSNSとかを振り返っても、大した記録が残っていない。
んー、多分、あんまり調子よくなかったんじゃないかなーと思う。笑
去年の夏から始めた寺子屋ブッダでのアルバイトは、普通じゃ出会うことのできないいろいろな人に会うことができたり、様々な事業が展開する中でお寺業界の最前線感を感じたりして、充実していたと思う。
お金がないのでもう一つ始めたビズリーチでのインターンも、まあ新規事業ゆえに実装されない企画が多かったけど、好きに色々やらせてもらっていた。
じゃあ何が調子よくなくさせてたかって、やっぱり自分の進路が決まってなかったことだろう。
当時を思い出すと、夏のインターンは大成功して、LINEは年明けから特別ルートでの面接がスタートする予定で、冬のインターンもリクルート住まいのに参加が決まっていて、そこそこ順調だったはず。だけどやっぱり気持ちが浮かなかったのは、本当に就活するのか、もう1年休学して仏教の勉強とか寺子屋ブッダを頑張るのか、決めかねていたからだろう。
結局、とりあえずLINEは内定取っておこうと思って余裕こいてたら最終で落ちるし、住まいのインターンも散々な感じになっちゃったし、そのへんからさらに泥沼に入っていったような気がする。これが1月、2月くらい。
いい話もあった。この頃、彼女と初めての旅行で三重に行った。二人が行ったことのない県を書き出して、あみだくじで決まった三重だったけど、最高の選択だったと思えるくらい楽しかった。三重に行くなら、伊勢神宮とかだけじゃなくて、熊野古道のほうとか自然を満喫できるところに行くのがおススメです。
そんな感じで程よく彼女にうつつを抜かせながらも、あ、そうだこの頃はまだ竹田とルームシェアしてたんだった。二人で住んでいたのもはるか昔のことのように思えるけど、たぶん2月とかは、別居が決まって、冷え切った仲が再びちょっとだけ温まりつつあった頃だと思う。笑
もう別れるってわかると、一緒に飲みに行ったり、二人の時間を大事にしようとするんだよな。って夫婦かよ。
それで、Twitterをさかのぼって自分の活動を振り返ると、やはり活動の中心は長期インターンみたい。2月末に、寺子屋ブッダでいい提案ができたらしいことを書いている。
この頃はまだインターンを頑張りたいと思っていた。就活するよりも、寺子屋ブッダでもう1年頑張ったほうが、今後の坊主キャリアにつながるかなとか、そんなことを考えていたと思う。孫正義財団にもエントリーしてたし。笑 あれは第1回だから結構通るかなと思ったんだけど、蓋を開ければガチ優秀な人が集まってて(天才小学生的なのとかもたくさん)、普通に無理だった。
そうこうしているうちにも時間は過ぎ、そろそろ決めねば!と思い、寺子屋ブッダの代表にこのままもう1年続けたいってなんとなく伝えたら「それより企業で務めたほうがいいと思うよ」ってやんわり断られる。
ああどうしようと心を決められないままずるずると時は過ぎ3月。
3月9日に「人生どうしよう」ってツイートしていて笑った。
でもそのあとに「嫌われる勇気」ってツイートしているので、まだ道から外れたがっている模様。
でもたぶん3月下旬くらいだろうな、インターンの上司や周りの人に「秦くんどうするの」とか言われるようになって、いよいよどうしようかと考え始めた。
3月末は引っ越しもした。竹田とのルームシェアから、神楽坂のシェアハウスへ。
このタイミングだったから、まだ9ヶ月くらいなんだなあ。シェアハウスでの生活が始まったのが今年のハイライトの一つでもある。
最初はお金貯めてすぐに一人暮らしを始めるはずだったけど、まあそんなに心地悪くない・・・というか結局かなり愛着がわいてしまって、いまでは帰省していても家が恋しくなるくらい。
最初は大石、千葉ちゃん、ひげ、あやの、大吉、ジェロさん、秦の6人だったのが、ごんが来て、沼さんが来て、ごんが出て、風子が来て、沼さんが出て、あやのが出て、灰田が来て、なおちゃんが来て、たまこが来て・・・今は10人になった。
延べにしたら何百人もお客さんが来たし、色んな人に出会って、自分の中でもいろんなことを考えるきっかけになった。大学生活最後の一年間で、まあ面白い環境に身を置けたと思う。
さて、自分の話に戻って、4月。4年生になり、ついに本格的に就活を始めたのを覚えている。忘れもしない、3時間くらいは確保して、渋谷のパブリックハウスというカフェに籠城。リクナビに募集要項が掲載されている8000社のページをすべてスクリーニングして、気になる企業はタブで開いて、それを全部再確認して、なお興味があるところをスプレッドシートに落とし込んで志望企業リストを作った。
リストになったのはたぶん40社くらいだったか。過去のファイルがどっかにいっちゃったので参照できないが、それくらいだったと思う。
そっから15社くらいに絞って、ESを書き始めた。ここから本格的に就活が始まった。
んで、就活にどんどん入っていくと、やっぱり自分の世界も狭まってくるわけで。今考えると、思考が偏っていたなあと思い出すことが多々ある。自分はバランス感覚あるから大丈夫 ってやってる最中は思ってたんだけども。
一旦入り込んじゃうと、「企業ブランド的にどうだ」とか「とりあえず内定貰って余裕みせたい」とか「あいつがあんな企業に?」とか、そういう“就活世論”みたいなもんに流されて、本質を見失っていたように感じる。
まあそんな感じで4月は終わり、5月のGWは彼女と長野旅行へ。彼女の実家とかばあちゃんちとかも回ったりして、めちゃ楽しかった。あ、和尚の家も行った。最高の立地とおもてなしだった。長野好きになった。GWは遊び通して、5月中旬くらいからは徐々に本選考が始まっていった。
実際にエントリーした企業はこんな感じ。
リクルートキャリア、リクルートライフスタイル、リクルートホールディングス、パソナキャリア、博報堂、ADK、日経新聞、野村総研、博報堂プロダクツ、アビームコンサルティング
いくつかの業界のなかから興味のある企業を選んで、博報堂(生活総合研究所)が第一志望だったんだけど、まあ進めながら企業を見て行ったらいいかなというスタンスで選考を進めていった。
その中でいいなあと思ったのがアビームだった。選考を重ねるごとにアビームの企業理念とか、人とかがほかのコンサルとは一味違って、魅力的だなあと思うようになり、6月中旬くらいに内定を頂いた。
その頃には途中でやめてしまったり落ちたりで(リクルート系は6月から一気に選考進んだんだけど全部落ちた)、残すところは第一志望の博報堂のみで、かなり気合を入れていたんだけど、3次のグルディスで落ちた。周り大したことないと思ったし上手くアピールできて、手応えあったんだけど落ちちゃった。あの時はみんしゅうを見まくって、他の人が選考通過したとの書き込みをしているのに、自分はまだ可能性あると信じて待っていた。けど結局落ちてたなあ。まあ合わなかったってことで。
ついにアビームに決断。内定承諾もして、ひとまず4月から始まった就活は6月末で終わりを迎えた。
そっからはまた普段の生活。
半期の授業「イノベーションプラクティス」があったり、インターンもがんばったり、お寺業界の人に会い始めるようになった。
この頃に「ホトカミ」の吉田さんや「みんれび お坊さん便」の海野さんとかに会っている。どっちも知人に紹介してもらって。この頃から、いろいろ嬉しいご縁を頂けるようになった。
友廣さんに機会をもらって千歳のまちライブラリーの打ち合わせに参加させてもらったり(ここでは反省すべき点が多々あった。それから、個人で活躍する人ばかりの中で、自分がこれからいかにしてこういう場で価値を出せるようにするかとか考えた。この時点では、学生・北海道に友達多い ということくらいしか貢献できなかった)もした。
あとはテスト100%の授業しかとっていなかったので、試験勉強三昧な感じ。なんとか頑張って、18単位くらいとった!
そして8月になる。
実はアビームに決めてからも、なんとも決めきれず、本当にここでいいんだろうかという気持ちが付きまとっていた。わかりきらない部分があったので、3人くらい社員に合わせてもらったり、内定者ランチとか座談会とか会社が自主的に(いい会社!)やってくれているイベントに参加して、情報収集をした。
それでもやっぱり決めきれずいたときに、ビズリーチでお世話になっていた部長が、「秦くんもっと他にあるかもね、データがこれから面白いよ」とデータサイエンス系の企業を紹介してくれた。
それで、自分でも届きそうなところということで、電通デジタルと博報堂デジタルを受けることにした。
それで結局博報堂デジタルに決めたんだけど・・・
博デジに決めるまでに、本当に時間がかかったなあ。結局アビームを内定辞退したのが9月中旬。内定式の2週間前とかで、何度も通ってお話はさせてもらってたんだけど、迷惑かけた。だけど最後には僕の選択を肯定してくれて、背中を押してくれた。本当に色んな人に話も聞いたし、悩みぬいた末の決断だった。
博デジは、二次募集は1日で完結しちゃうという超コスパの良い選考だった。スピード内定だっただけに、受かってからいろいろ良くしてもらった。無理を言って会わせてもらった同期はいいやつで、一緒に頑張っていこうと思える友達になれた。
と、そんな感じで8月はお盆の帰省とかもあり、飛ぶように過ぎて、9月。
やっっっと進路も大方決まって落ち着き、自分にとって大きな転機となった、仏教青年会の合宿があった。この話の詳細は前に書いたブログに譲るとして、ここでスピーチしたこと(スピーチのために気持ちを言語化したこと)が、自分の中で一つ覚悟になったように感じる。この原稿をのちにFacebookにアップしたんだけど、とても反響があって、「ああついにここまで来たなあ」と思ったのを覚えている。
まあ絶対お坊さんになるって決めたわけじゃないんだけど、これまで興味の幅が圧倒的に広くて、何者でもなかった自分が「お寺の人」になったことは、その後の人生においても大きな転機となるはず。
自分に一つのオリジナルの看板を掲げることによって、それから急に色んな機会をもらえるようになった。
それからちょうどこの頃、先述のイノベーションプラクティスからスピンオフして「就活とエゴと坐禅のワークショップ」を始めたりもした。これも自分にとっては大きな経験で、これまでインターンや団体で何かすることはあっても、自分が主体となって、すべての責任を背負いながら何かをやるという経験が無かった。「自分が最前線で何かをやったことがない」ということがコンプレックスだったんだけど、ここでついに腹を決めて自分でコトを起こしたのだ。これは小さいけれど、自分にとって大きな一歩だったと思っている。
さて、少し息抜き。9月20日の誕生日は、彼女と沖縄で過ごした。この旅行は自分にとってもとても印象深いものになって、今でもたまにあの楽しかった思い出に浸ったりする。
10月。何してたかなー。たぶん仏教の勉強を改めてやったり、ビズリーチでのインターンに注力したり(たしか14万くらい稼いだ)、人に会ったりしていたんだと思う。
11月は、またいろいろいい出会いがあった。たなしょうに誘ってもらったよんなな会にて、脇さんや畑中さん、ゆるスポーツの澤さんと会ったりした。この頃はもうお坊さん的な感じで紹介してもらうことが多いので、みんなそれを絡めていろいろ連携できそうなことを考えてくれる。
そのあと脇さんに誘ってもらったよんなな×OneJapanの集会では、また色んな人と話すことができた。ここでも、民間とお寺が連携して何かできるんじゃないかということは強く思ったし、同時にもっと自分に力があればなあ。早く自分の身一つで仕事ができるようになりたいと思った。自分がお寺と企業のハブになれば、めちゃくちゃ色々面白いことができると思うんだ。そういうポジションに立てるようになりたいと思った。
それからもう一つ。100バンチの加藤さんに呼んでもらって、高野山の飛鷹さんと仏教に関わる若者の会に参加させてもらったんだけど、ここでも色んなキーマンに会うことができた。
飛鷹さんは今まであったお坊さんの中で最もビジネス側の優れた視点を持ってる人で、とても刺激的だった。それから、博報堂の生活総合研究所に勤めるお坊さんにも会うことができた。しかも、そのひとがなんと僕の就活坐禅WSのことを知っており、未来の住職塾コミュニティに紹介までしてくれていたという奇跡。色々意見交換もできて、手伝ってくれるとも言ってくれて、さすがにこの日は飛び跳ねて家に帰った。
そうそう、出会いと言えばもう一つ。後期に取っていた「姿勢と健康」という授業で偶然ゲスト講師として来ていた精神科医でお坊さんの川野先生との出会いも嬉しかった。
マインドフルネスのお話をしていたのだけど、それがあまりにも面白くて、また寺子屋ブッダのマインドフルネス事業とも通ずるところがあって、思わず講義のあとに話しかけてしまった。意気投合して、そのまま寺子屋ブッダの代表に紹介することに。
この前その面会があったんだけど、それもめちゃ面白くて、ついに寺子屋ブッダにジョインしてくれることに。代表の松村さんも「今年で一番うれしい午前中になりました」と一言。これを聞けたときはめっちゃ嬉しかったなあ。
そんなこんなで、「お寺の人」になった9月から、10,11月はガっといろんな人に会ったりする機会が増えて、やっと前に進み始めた実感を得ることができた2か月だったと思う。ここで植えさせてもらった種を枯らさないためにも、止まってられないと思っている。
そして最近に至るまで。書いておきたい話は3つで、ビジネスモデルの授業の話と東北の話と彼女の話。
まずビジネスモデル仮説検証という授業。これもとても勉強になった。ビジネスモデルの組み方にはいくつかの方法があるけど、ここではプロダクトアウトの形で、仮説をもとにサービスを考えてから、リーンスタートアップ的にヒアリングを通して仮説検証を行い、ピボットしていくという手法をとった。
僕はお坊さん限定SNSというものを考えて(センセイノートから着想を得た)、SNS上でやり取りすべきお坊さんの関心ごとって何だろうというのを合計12人のお坊さんや事業者の人にヒアリングして考えていった。
知り合いのお坊さんづてで色んな人を紹介してもらってヒアリングを重ねていくと、ふわっとしていたお寺業界の輪郭がよりくっきりと見えるようになっていった。いろいろ勉強になるよい機会になった。
結果的には、授業ではかなり評価してもらってプレゼンまでさせてもらって、満足の意行くビジネスモデルになった。
本格的にやってみようかなという気持ちにもなった。
しかし、、授業後にも何人かお坊さんに話を聞いていったのだけど、んー、好きなお坊さんもいるけど、あまりいいなと思わない話も聞く。がっかりしてしまうようなことを聞くこともある。そういう現実を見ていったときに、はて、僕はお坊さん向けにサービスを提供したいのか?という根本的なモチベーションが見えなくなってしまった。
自分が決めたお寺業界で自分の影響力を大きくすることが今は一番の目的ではあるけど、本気でワクワクしないことをやってもしょうがないなと。
それで色々考えたところで、お坊さんに対して何かするというよりも、やっぱり社会に対して、仏教を通じて何かするというほうが、つまりBtoB(ボウズtoボウズ)より、BtoCのほうがやっぱりやりがいがあるし、楽しいだろうなと思い至った。
一周まわってこういう気持ちに至れたのは、ある意味仮説検証で、とりあえず一生懸命授業に取り組んで良かったなと思う。
次に東北の話。大学に入ってすぐからずっと続けてきた東北の復興支援の活動もここで一区切り。12月21日に開催したKesennuma voices6上映会の後の打ち上げで先輩や同期、先生と話していて涙が出そうになった。
東北復興支援の活動に関しては、もちろん関われてよかったとは思ってるんだけど、あまり自分がやってきたことに対して、自信が持てないというか、もっとできることはあったなという後ろ向きの思いがあった。特に意識はしてなかったのだけど。
12月21日のイベントは後輩に引き継いで無事に終了。アンケートも素晴らしい結果だった。飲みながら同期の飯田氏と一緒に眺めていて、急になんだか思いが溢れてきて。いやあ、頑張ってきたなあ、続けてきてよかったなあと、初めて自分の活動に誇りを持てたような感じがして、涙が出そうになった。
詳しくは後に書くブログに譲るんだけど、これも本当にありがたい経験だった。
最後に彼女。付き合ってついに1年がたったけど、一層彼女を大切に思うようになった。誕生日、記念日、クリスマスと、お財布のほうはやや疲弊したんだけど、全部楽しかったなあ。改めて、幸せに思う。
一層大切に思うようになったきっかけがいくつかある、、んだけど、書くのはまた今度にしよう。
さて、卒論並みに文字を書いてきたけれどやっと現在に戻ってきた。
今は卒論とか笑、読みたい本とか、インターンとか、仏教とか、データサイエンスの勉強とか、旅行とか、いろいろやりたいことがあって常にせわせわしている状態なんだけど、まあ、1年を振り返ると、いい一年だったなと思う。月並みだけど。たぶんみんな言ってると思うけど。笑
自分にとってはとても重要な一年になった。そして確実に成長できた一年だったと自分を認めてあげたい。(もっとやれたけど!寝すぎ)
最後に、最近の学び。自利利他円満というけど、まずは自利を満たしてあげることが大事。
今年の目標として書初めしたのが「謙虚」と「慈悲」だったんだけど、これがどうしても、どう頑張っても実行できていなかった。自分の言動を客観的に見れば、とても謙虚だったとは言えないし、慈悲に関しても、歩くのが遅い人にイライラしたり、自分と考えの合わない人を疎ましく思ったり、全然ダメだった。
と思ってたんだけど!ついこの前、気づいた。
慈悲とかいうけど、まずは自分に慈悲の心を向けてあげないとだめじゃん!と。
そりゃ自分のできてないところは気になるし嫌になるけど、良くなったところもあるんじゃないの?と。去年と比べたら意識できるようになったじゃん、と。
そうやって心の角度を変えると、素直に自分頑張ったじゃん、と思えた。すっと肩に入っていた力が抜けたような気がして楽になった。
まずは自分のいいところを見てあげて、満たしたうえで、他者に心を向けていかないと、苦しい。
今回のブログは、一年を振り返りながら、自分のがんばったところを見つけるというのも一つの目的だった。(自画自賛的な個所が多くてすみません)
さて、来年はどう生きようか。残された大学生活、一日一日を丁寧に生きよう って最近思うことが多くて、ことあるごとに「これが最後の〇〇かもしれない」とか思うようになって、これがとても苦しい。最後の〇〇 とか急に思い始めるの本当にやめたい。悲しいつらい。
そしたら昨日とっても素敵な文章に出会った。
悟りといふ事は如何なる場合も平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。(正岡子規)
正岡子規が病床でつづった言葉。
「悟りとは、いつ死んでもいいということだと思ったんだけど違った。いつでも平気(乱れず平穏に)に生きていられるということだった。」
凄いなー。もちろん一日一日を噛みしめながら生きるというのはその通りだと思うんだけど、そのうえで普段と変わらない平穏な気持ちで生きていけたら、楽だなあと思った。
この言葉を胸に、4月まで平気にいきたい。
写真はじーちゃんとの2ショットをバッジにしたもの。さっき見つけた!
大事な人の話
最近、友達と「幸せ」について話す機会があった。その友達は自身の幸せ観についていろいろと説明してくれたのだが、僕はそれに対してなぜか何らかの言葉も返すことができなかった。というより、返そうという気持ちがあまり起きなかった。
1年くらい前までは、幸福論を説いた本を読んだり、幸せに関するイベントに参加したり、「幸せオタク」ともいえるほどに、幸せとは何なのかということに強く関心を持っていた。
そんな僕なのに、なぜかこの前の幸せの話には、心が動かなかったのだ。これはどういうことなのだろうか。
そこで改めて気持ちを整理してみた。
その結果、「幸せ」についてあれこれと考えることが、今の自分にとってはやや遠い関心ごとになっているということに気がついた。
つまりこういうことだ。
僕は今、めちゃくちゃ幸せなのだ。
ーーーーーーーーー
僕が今、めちゃくちゃ幸せなのには、たぶんいくつかの理由がある。いくつかあるのだが、今日はその中でも間違いなく大きな要因の一つになっていることについて、書いてみたい。
去年の12月11日、僕は彼女ができた。
11か月記念日である今日まで、たぶん好きの気持ちを更新し大きくし続けながら、仲良くさせてもらっている。
こういう気持ちは多分人生で初めてだ。(そもそも恋愛経験があまり多くないのだけど。)
おかげで今、めちゃくちゃ幸せなのである。
だけど、この前彼女を悲しませてしまった出来事があった。
なんでそんな話になったのかははっきり覚えていないけど、彼女が「私の何が好きなの?」と聞いてきた。
それに対して、僕は思うように答えられなかったのだ。
「いやあ、なんだろう、、、存在?いてくれるだけで嬉しいというか、なんというか。」
そんな曖昧な答えをした僕に対して、彼女は不安になったようだった。
僕も話していて「彼女の期待しているものに応えられていないな。」という感じがあったのだけど、僕は本当に、ただいてくれるだけで嬉しいと思っていて、それ以外の、それ以上の言葉が見つからなかったのだ。
あと、この好きの気持ちを細かく分解して一つ一つ説明するのは野暮に感じて、それもしたくなかった。
彼女と付き合う前には「好き」って何だろうと思って、好きの気持ちを要素分解して分析するツールを開発して、色んな人にアンケートして回ったりしていたのだから、えらい変わりようだと、自分でも思う。笑
ちなみに僕の5つの好き要素は、外見、抱きしめたさ、人としての成熟度、女の子らしさ、そしてピュアエネルギーである。
この基準で言うと、彼女は全部を持ち合わせていて、付き合う前はそれが見事にはまって魅力に感じて、飲みに行く仲になった。
だけど付き合った後は、そういう要素ももちろんなのだけど、もっと違う次元の感情に変わっていった感じがある。それを言葉で表現すると、「存在が好き?」みたいな感じのよくわからない表現になってしまうのだけど、そんな気持ちだ。
さて、今日はこの気持ちを探る一つのアプローチとして、
「この子すごいな。愛おしいな。」
と思った瞬間を、エピソード形式で三つセレクトして挙げてみるということをしたい。
1.中板橋の定食屋にて
中板橋に、腰の曲がったおばあちゃんが一人で切り盛りしている定食屋がある。
綺麗で洗練された場所よりも、ちょっとぼろくて雑然としていて、でも味がある場所のほうが好きな僕たちは、古い定食屋などは格好のデートスポットになる。
ここに行ったのは、4月くらいかな。中板橋は桜の名所でもあるので、夜のお花見も兼ねて、訪問した。
お店入ると、お客さんは女子大生と思しき女の子が一人。カウンターにちょこんと座って、おばあちゃんと仲良さげに話をしている。
「こういう光景も、こういうお店ならではだよね。」なんてにやにやしながら片耳で会話を聞いていたのだけど、よく聞くとなんだか話は深刻そう。悩み相談のようにも聞こえる。
僕らが注文したメニューが出てきて、食べ始めたのだけど、途中から女の子がすすり泣く声が聞こえる。もう気になってしまって、静かにご飯を食べながら、一緒に耳を澄ませて話を聞いていた。
どうやら悩みの原因は、地方から大学進学で上京してきたものの、思い描いていた大学生活とは少し違っていたこと、そして友達もあまりできず、ホームシックになっているということのようだった。
僕らもお互い上京勢だったので、気持ちはわかる。特に彼女は、自分も同じような心境だった経験があるらしく、もう気が気じゃない様子。
僕らがご飯を食べ終わっても、まだその子は帰る様子がない。なんとも言えない気持ちになりながらも会計のために席を立ち、戻ってくると、彼女が何かを書いている。
手元を隠そうとするので何を書いているのかわからなかったが、それを書き終えるとおもむろにその子のもとに駆け寄り、その紙を渡した。
すると、すでに涙でぬれているその子の顔がさらにぐしゃぐしゃになり、声を出して泣き始めた。
一瞬何が起こったのかわからなかったが、すぐに何を渡したのかがわかった。
それは、一人上京して孤独と戦う彼女へのメッセージと、自分の連絡先だった。
「私も昔同じ状況で苦しんだ経験があるので、力になりたい。いつでも頼ってね。」と。
こういう場面に遭遇して、何かしてあげたいと思うことはあっても、実際に行動に移すことは難しい。
それができる彼女を素直にすごいと思った。
その定食屋を出た後、二人で中板橋の川沿いを歩きながらいろいろ話したことは、今でも心に強く残っている。
ちなみにその後、実際に二人でランチに行って、色んな相談に乗ったらしい。
「俺も一緒に行くよ!」と言ったが、
「こういうのは、女二人で話すからいいんだよ。」と断られてしまった。
好きだ。と思った。
2.映画「怒り」を観て
彼女はめちゃくちゃ涙もろい。すぐに泣く。今まで会った人の中で、一番泣き虫だと思う。これはもう、彼氏としては、最初のうちはなかなかに戸惑わされた。
だけど最近わかってきたことは、彼女は弱虫ではないということだ。弱くて泣いちゃうというよりは、共感力が高すぎて、すぐに涙が出てきてしまうのだ。
例えば、出会って初めてデートをした日。彼女はLGBT問題に課題意識を持って活動しているのだが、その話をしているときにも、感情がこもりすぎて泣いていた。最初にそれを見たときは、なんてピュアでまっすぐなんだろうと心打たれたのを覚えている。
さて、この前、六本木で開催されていた東京国際映画祭に行った。目当ての作品は「怒り」。上映後、なんと監督と宮崎あおいのトークセッションがあるというので、彼女はこの映画を見るのは三度目だったが、僕は観たことがなかったということもあり、行くことにした。
この映画については別のブログで書こうかと思うくらい色々な考えが渦巻いたのだが、彼女はというと、三度目に関わらず(案の定?)号泣していた。
同じ映画を三回観て、毎回泣けるというのは僕にとってはちょっと理解できないのだが、まあそれはそれとして、そのあとにあれこれと考えたことを議論した。
犯罪についての話になったときに、彼女が最近許せなかった事件として、元TBSの記者が女性を強姦し、女性が声を上げ話題になっている事件の話をし始めた。
僕もそのニュースのことは知っていたが、男性と女性、どっちが本当のこと言ってるのかわからないなあくらいにしか感じられていなかった。
だけどよく考えてみれば、被害者の女性が実名と顔をさらしてまで声を上げるということが、どれだけ覚悟のいるものだっただろうか。これだけ世の中に出て、彼女はこれからの人生、「被害に遭った女」として見られてしまうだろう。それをしてまで声を上げたのには、どんな思いがあったのだろうか。こういう被害に遭って、泣き寝入りする女性もきっとたくさんいるんだと思う。そういう人たちの声の代弁者として、この女性は立ち上がったのだと思う。
そんなことを話しながら、彼女はまた涙を流していた。
「世の中のこういう不条理がまかり通っているのが許せない。気持ち悪すぎる。」と。
だんだん彼女の涙を見慣れてきていたんだけど、僕も映画を見た後だったからか、思わずもらい泣きしそうになったし、はっとさせられた。
清らかすぎるゆえの危うさを感じながらも、素直にすごいと思った。
守らねば。と思った。
3.沖縄のタクシー運ちゃんとの出会い
たまに、男女問わずみんなに好かれる人がいる。彼女もそういう人種だ。別に贔屓目に見ているわけではなくて、客観的に見てもそう思う。だんだん「何書いてるんだろう俺」みたいな気持ちになってきたが、続けよう。
「同性の友達が多い人は、恋人として信頼できる。」とよく言うけど、彼女は同性の友達がめっちゃ多い。何人かその友達にも会わせてもらったりしたけど、とても信頼されているようだ。あと、後輩にもめっちゃ慕われている。
僕の友達にも何人か会ってもらったけど、みんな彼女のことが好きになる。会った後にわざわざいい子だね!とメッセージをくれることも結構ある。気づいたら紹介した友達と僕抜きで遊びに行ってたりとかもあった。
あと、これは僕からしたらあまりいいことじゃないんだけど、付き合ってる今でもめちゃくちゃモテる。色んな男たちが誘ってくるらしい。この前もその件で喧嘩した。だけど最終的にその時考えたのは、「多分自分も違うタイミングで出会ってたら、彼氏いても結局好きになってたかもなあ」と。笑
人当たりがいいし、やっぱりなにより、ピュアでまっすぐなところは本当に魅力的だと思う。
さて、そんな人ったらしの彼女の本領が発揮されたのが、僕の誕生日の時に行った沖縄旅行。
僕が諸事情あり車を運転できない身だったので、公共交通機関やタクシーを使った出会いの多い旅になった。
色んな人によくしてもらったのだけど、特に印象的だった出来事がある。
本島南部にあるガンガラーの滝という原始人の遺骨が発掘された場所に行った帰り、タクシーに乗ったときのこと。
気難しそうな運転手だったんだけど、お話していくうちに打ち解けて、人の少ないビーチとか、地元の人が愛するてんぷら屋さんとか、観光ツアーばりに色んな所に連れて行ってもらった。
しまいには、目的地に着いて別れた後に「夜また合流して行きつけのミュージックバーで飲もう!」と誘われるまでに。
ベーシストでありドラマーだというおっちゃん行きつけのミュージックバーは、愉快な店主とフレンドリーなお客さんが溢れる良い場所だった。仲間のミュージシャンも急きょ呼んで演奏してもらったり、ごはんまで奢ってもらったり、至れり尽くせりの一日だった。
と、ここで言いたいのも、きっと彼女じゃなかったらこんなに良くはしてくれなかっただろうなあということ。
最初はすごくぶっきらぼうで、自分だったら話しかけられてもまず適当に流していたであろうところを、彼女が丁寧に話を聞いてくれたおかげで、打ち解けることができた。
どんな人とも丁寧に接することができ、とてもフラットな目線を持っているのも、彼女の魅力の一つ。
自慢の彼女だ。
さて、見切り発車で始めた文章だったけど、そろそろ終わりにしよう。
そもそもこれを書こうと思ったのは、11月13日が彼女の誕生日だから。
いつも何か節目のタイミングでは手紙を書いているけど、今回はちょっと嗜好を変えて、ブログ目線で彼女への気持ちをつづってみた。
伝わったかな?こういうところが好きだよ。と面と向かって言うのができなかったので、色んなことを思い出しながら、自分の中で印象的だった出来事を三つ選んで書き出した。
ま、僕としても彼女のすばらしさを再確認できたので、良しとしよう^^
泣いてるかな?泣いてたら成功です。笑
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ちょっとしたサプライズとしてこの場を使わせてもらいました。もし万が一これを読んでいる彼女以外の方がいたら、あーノロケてんな。と思って暖かい目で見てやってください。
終わり
秦正顕、23年の半生を語る
先日、全国仏教青年会連合主催のイベントが開催されました。
全国の大学に組織があり、早稲田大学の仏教青年会は1890年代に創立されています。100年以上も前からあるわけですから、とても歴史のある組織です。
今回はその全国の仏教青年会が一堂に会し、合宿をやるということで、僕も早稲田大学支部からの参加者として行ってきました。
しかもたまたま運よく早稲田大学代表としてスピーチする機会を頂きまして、自分の考えていることを、整理もかねて発表してきました。
このスピーチが、自分の考えていることというか、「秦正顕、23年間の半生を語る」みたいな雰囲気になったので、
ここまでの人生、うようようようようよ曲折を経てこういうところに辿り着きました というご報告ということで、原稿をそのまま掲載してみます。
以下、原稿です。
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はじめまして。早稲田大学社会科学部4年の秦正顕と申します。
今回、このような貴重な場で自分の考えを述べさせて頂く機会を頂き、大変光栄に思います。
私は、札幌にある浄土真宗のお寺に、長男として生まれました。
今は父が住職として、ほぼ一人でお寺を守っている状況で、私もお盆のときだけは帰省してお盆参りを手伝っています。
今年のお盆も、帰省してお参りを手伝っていたのですが、そこである檀家さんにこんなことを言われました。
「大学4年かい。じゃあ、来年はお寺に戻ってきてくれるんだね?期待してるよ。」と。
この言葉が、今回のスピーチの出発点です。
檀家さんはいったい私に、何を期待して下さっているのでしょうか?
今回お話するテーマは、「お坊さんって何のためにいるのだろうか」ということです。
実家を継ぐか継がないか。大学4年間を通して悶々と考え、ようやく「お寺を継いでお坊さんをやってみよう。」という決断に至った私が、お坊さんの存在意義について考えたことを、お話していきたいと思います。
私はお寺に長男として生まれ、「お寺の跡継ぎ」として、親族や檀家さんから大きな期待を全身に浴びながら、育てられてきました。毎朝お朝事をしたり、お寺のお手伝いをしたり、仏教には小さなころから慣れ親しんできました。
そんな私が当時思っていたこと。それは
「仏教よくわかんない。お寺継ぎたくない。」
ということでした。
敷かれたレールに乗りたくない。加えてそのレールの先にあるものの価値がよくわからない。自分の人生は自分で切り開きたい。そんな風に考えていました。
祖父母の期待は大きかったですが、その一方で、父は「お前が一番やりたいことをやればいい。レールなんてないよ。」と、私の意思を尊重してのびのびと育ててくれ、ありがたいことに、浪人をしてまで早稲田大学に行くという選択を許してくれました。
晴れて早稲田大学に入学した私は、「お寺を継がないだけの、やりたいことを見つけよう!」という思いで、仏教とは少し距離を置いて、様々なことにチャレンジし、積極的な大学生活を送ってきました。
そうして大学4年になり、今ここに立っています。
大学生活では本当にいろいろなことを経験させていただきました。だけど、その中で本当に自分がやりたい!と感じられることが見つからなかったんです。
そこで、就活を意識し始めたタイミングで、今まで無意識に遠ざけていた仏教を改めて勉強してみることにしました。
すると、昔は全くピンとこなかったいくつかの教えが、ありありと生き物のように自分の中にすっと入ってきたのです。
「逢仏殺仏って、あの時に感じた考えと同じことを言ってるじゃん。」
「愛別離苦、振られたばかりの今聞くと、とてもしみる。」
「あぁ、他力本願ってそういうことか。」この教えは就活の時大きな支えになりました。
「仏教で説かれている人間の本質は、今でも全く変わらないのだ。」
と、20年余り生きて、たくさんのことを経験して、自分の精神がある程度成熟してきて、そうして初めて仏教のすばらしさというか、先人たちの偉大さというか、そういう畏敬の念がわいてきたのです。
仏教って凄い!この教えは間違いなく今の人にも伝わるはずだ!と、その時初めて思うようになりました。
正直、今の日本では、無宗教を標榜する人も多く、仏教徒と呼べる人はあまり多くないと思います。だけど、きっと仏教の教えを知っていたら、心が軽くなったり、救われたりする人もまだまだいるのではないでしょうか。
仏教の持つ力が十分に発揮されていないような気がしています。
「人々の心の支えとなるものとして、仏教を今よりもっと身近な存在にしていきたい。」
これが僕の目標になりました。
仏教の教えが必要なタイミングはきっとそれぞれあると思いますが、そのタイミングが来た時に、すっと仏教の教えを手に取ってもらえるように、もっと人々のそばに仏教、そしてお寺を近づけていけないかと考えるようになりました。
それをやるには、まずは自分が心から仏教の教えに共感することからです。
僕自身、少しずつ仏教の良さはわかってきたものの、まだ、なくてはならない存在にはなっていないような感覚があります。
普通に生活していても、何かにすがりたいほどに苦しいという場面はそう起こりません。大学生活、楽しいことばかりです。(笑)
教えの本質を心から実感し、それを自分の言葉でもって語れるようになって、初めて伝えられるものがあるのではないだろうか。
そう考えて、大学卒業後は一般企業に就職し、社会人になろうと思っています。そこで社会の荒波に揉まれながら、色んな壁にぶつかりながら頑張りたいと思っています。そしたら、また新たに今まで感じられていなかったこと、あるいは見えていなかったことが見えてくるような気がしています。
そうして仏教の教えが体に染み込んで、単なる引用でなく、自分の言葉で仏教を語れるようになったときに、お坊さんとして実家に戻ろうかなと思っています。
これが自分なりに辿り着いた、理想のお坊さんへの道です。
しかしです。
冒頭に紹介した、檀家さんからの言葉に戻ります。
「大学4年かい。じゃあ来年は戻ってきてくれるんだね?」
この言葉は、おそらくお寺に戻ってきて、しっかり「先祖供養」をしてほしいという趣旨の言葉だったのだと思うのですが、、。
確かに僕が来年大学を卒業してすぐにお寺に戻ったとしても、お参りもできるし、葬儀の役僧もできると思います。先祖供養という面では、檀家さんからの期待に応えられると思います。
だけど、裏を返せばそれ以上のものは期待されていないのではないか。と、
自分が決めた、社会の荒波に揉まれながら仏教の教えを理解し伝えられるようになる というこれからの目標は、檀家さんにとっては別に必要とされていないのではないか。と、
そう感じてしまったのです。
今の日本のお寺では、お坊さんは「先祖供養のためのお経を唱える人」。そんな「職業」のようになってしまっているような気がします。
当然先祖供養も大切ですが、だけどお坊さんの存在意義とは、それだけじゃない気がするんです。
人々の悩みや苦しみを一緒に考えて、その人自身が自分で悩みを解決する手助けをする。正しく生きるための心の拠り所を提案する。そんな役割がお坊さんにはあると思います。
そして今の社会には、間違いなくそういった役割が必要だと思っています。
最後に、これからのお坊さんの在り方について考えてみます。
供養のときにしか人々に求められなくなってしまった日本のお寺が、再び価値を見出され、人々の心の拠り所となるためには、何が必要でしょうか。
まずはお坊さん一人一人が教えを丁寧に伝えていくことではないかと思います。だけどそれだけでも足りないと思います。
今の社会がどうなっていて、今の人が何を考えて、どんな暮らしをし、どんなことに困っているのか。これをしっかりと自分の目で見に行って、そのうえで、伝え方を考えていくこと。これが大切なんだと思います。
インターネットを通してお坊さんへお悩み相談ができる「hasunoha」というサイトがありますが、このようにインターネットを駆使して人々にアプローチするといった、新しい伝え方も必要だと思います。
あるいは、僧侶が運営する坊主バーというものが全国に4店舗ありますが、これも僧侶がより多くの人との接点を持つためにはどうすればいいのか と考えた末に始めた活動だそうです。
寺子屋ブッダという団体は、お寺とヨガの先生や音楽家などを引き合わせ、お寺でイベントを開催するプラットフォームを作っています。
今述べたのは私の好きな団体ですが、このように、お寺を積極的に社会に開いて、先祖供養の時以外の接点をもっと多く作っていく必要があると思います。
親鸞聖人がそうであったように、今生きている時代を顧みて、その時代に合わせて仏教を0.1ミリでもアップデートしていく、そういった姿勢が大切なのではないでしょうか。
私は来年から、広告代理店のデジタル部門に就職する予定ですが、そこでインターネットを使った新しい広告の仕組みなどを理解し、その領域の専門家としての知識を得て、仏教を知ってもらう活動に還元できたらいいなと考えています。
まだまだ仏教についての勉強も浅いですし、考えも粗削りですが、ここで同志と呼べるような仲間を作って、一緒にこれからの仏教を盛り上げていけたらいいなと思っています。
ご清聴ありがとうございました。
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ちなみに、後日佛教タイムスの表紙を飾りました。笑
福島で復興支援に関わっていたお坊さんの話
まただいぶ久しぶりの投稿になってしまった。書くべきネタはたぶん最も多い3か月であっただろうに、またさぼってしまった。この間に感じたことは、遅くなってもちょっとずつ書き残しておきたい。
さて、今回は仏教青年会合宿での話。
福島で復興支援に関わっていた、久間泰弘さんという曹洞宗のお坊さんのご講演があった。
この方の言葉には、魂が宿っているように感じ、大変感銘を受けたので書き残しておく。
僕も大学に入ってから東日本大震災の復興支援には、「同じ日本人として、何かしなきゃいけない。何かできることがあるはずだ。」という思いで自分のできる範囲で関わってきた。
久間さんは、福島は伊達のお坊さん。6年半、復興支援に関わってきて感じたことをお話してくれた。
この方は「宗教者として、被災者の方々の手助けをしなければならない。」という思いで精力的に活動を進めてきたという。
お話の中の随所で、宗教者として活動しているということを強調していた。
“宗教者として”できる支援と、“一日本人として”できる支援、何が違うのだろうか。ここがとても気になった。ここに、お坊さんの存在の本質があるのではないかなと思い、じっくりと話を聞いていた。
それで、結論から言えば、たぶん、ある一点を除いては、何も違わないんだ と思う。
「宗教者と一般の人の支援、なにが違うんでしょう?」と質問したら、「わきまえること。待てることだと思う。」とおっしゃっていた。
ん、ピンとこない、。
「仏教の教えを実践できるのがお坊さんである。慈悲の心を持って接するとは、こちら側から支援の手を差し伸べるのでなく、ゆっくり待って、そうして見せてくれた何かに対して、脇から支えてあげることだ。寄り添うことは難しいけれど、できる限り支えになってあげることが、慈悲の心なんだと思う。」と。
んー。
当然お坊さんは仏教の教えをもとに人と向き合う。だけどそれは、「相手のことを考えて、本当にその人のためになることをしようとする」ということにおいては、誰がやろうと変わらない。お坊さんだから特別できることなんてないし、そこにあるのは「1人の人間として、何ができるか」ということだけだと思った。宗教者であっても、一般の人であっても、何も変わらないはずだ。
ではお坊さんの存在意義って何なのだろう。
さらに話を進めて、一つだけ見つけた。
久間さんは、復興支援活動をしていく中で、自らも疲弊し、不眠症に悩まされたことがあったそうだ。自分はいったい何のためにいるのだろう と自分の無力さを痛感し、心を病んだそうだ。
お坊さんは、お坊さんであるが故、宗教者であるが故、何かしなければいけないという使命感が人一倍強い。僕がボランティア活動をしていた時は「自分がまずちゃんと生活をしていける上で、溢れた余力を被災地のために使おう」という思いで活動していたが、お坊さんはそんな余裕のあることを言いにくい立場にある。世の中からの期待もあるだろうし、本人からしても「ここで力を発揮できなければ、どこに自分の存在価値があるのか」という気持ちになるのだと思う。
ここで何もできないと感じること=アイデンティティの危機に繋がるのだ。
久間さんも、このアイデンティティの危機によって心を病んでしまったようである。ほかにも同じような思いを抱えてしまうお坊さんは少なくなかったようだ。
だけど久間さんはそこから立ち上がった。
「このとき、仏教の教えに立ち戻らせて頂いた。そして改めて仏教の教えが自分の支えてくれた。」と。
続けてこう話してくれた。
「自分はまだまだとうてい悟りの境地とは程遠い。てんでダメな仏教徒である。だけど、一仏教徒として、この場に向きあわせて頂いているということも、お導き、一つの修行なんだ。私は誰かを救う立場ではない。同じように苦しみを抱えるものとして、一緒に歩んでいく立場であるのだ」と、そう思えるようになったという。
凄いと思った。お坊さんであることの意義とは、そういうことなのではないかと思った。お坊さんの強さを思い知った。
お坊さんをお坊さんたらしめるもの。それは強烈なアイデンティティ意識と、それを支える仏教の心なんだと思った。
仏様の教えを身にやつし、強い使命感を持って世の中の苦しみに向き合う。そしてそれを支えるのが、「悟りを目指す修行の身である」という揺るがない軸。
これがある限り、お坊さんは絶対にブレない、折れない。
強い。とても強い。
この純然たる強さこそ、お坊さんがお坊さんである理由なのではないだろうか。
久間さんの目、そして語られる言葉からは、ブレることのない確かな強さが感じられた。
苦しみの現場に入って、厳しく自分に向き合ったからこそ、見えるものがあるんだろうなと思った。
お坊さんの存在意義ってなんだろう。全然わからなくなっている現代において、久間さんは明確に輝きを放つ人だった。
僕の中でも、一人のロールモデルとなる人になった。
ホームレス問題の原因と現状の整理 リディラバのスタディツアーに参加してきた。
先週の土曜日にリディラバという団体が主催するホームレスツアーに参加してきました。
昔から、ホームレスには怖い印象があり、解決すべき問題だなあと思っていたのですが、
「あれ、そもそもホームレスってなんで存在するの?」
という、素朴な疑問がありました。生活保護があって、国民の権利として最低限の生活は保証されているはずなのに、どうして路上生活で生活に困窮してしまう人が出てきてしまうのだろうというのが疑問でした。
今回たまたまリディラバがツアーを実施していることを知り、いい機会だと思い参加してきました。
ツアーはホームレス支援の団体や元ホームレスだった人にお話を聞いたり、炊き出しの現場を見学させて頂いたり、盛りだくさんの内容でした。
これまで知らなかったことがたくさんわかり、
問題に対しての認識が「なんで解決できないんだろう」から、「だから解決が難しいのか」に変わりました。
驚くようなお話も多々ありました。
ここからわかったことをまとめていきます。
まず、大きな問題は2つあると思いました。
一つ目は、「ホームレスになっている人は、とても弱い」ということ。
確実なデータではないですが、ホームレスの方のおよそ7割は、精神的あるいは身体的に障害を抱えているのだそうです。統合失調症や自閉症などです。ホームレスだから働けないのではなく、働けないからホームレスになっているということです。
二つ目は、生活保護にも受給条件があるということ。
生活保護は、自治体の予算から出費されるそうです。つまり、生活保護者が多ければ多いほどその自治体の予算からの出費が多くなるということ。片っ端から保護というわけにはいかないようです。
そりゃ自治体からすれば、住所不定無職の人を自分の区で保護する理由が無いですから、水際でたらい回しにされてしまうわけです。
まず、私が考えていた「生活保護なんで貰わないの?貰えなかったとしても、今の世の中バイトだってたくさんあるし、なんで自活できないの?」という楽観的考えは打ち砕かれました。
じゃあ路上生活者は一生路上生活を抜け出すことができないじゃないか!
と思いましたが、さすがにそういうわけでもないみたいです。
一般的な不動産は住所不定無職の人には家を賃貸してくれません。そうして不動産と契約できない人の受け皿となっているのが“ドヤ”という場所。これは、誰でも入居可能な日雇い労働者のための簡易寮のようなものです。
ここは誰でも入居可能で且つ住まいとしても認められるので、ここに住んでいればだいたい生活保護を受給することができるそうです。
おお、じゃあこれで全てのホームレスの人が救われるはずだ!
と、そういうわけにもいかないらしく。
ドヤは確かに誰でも入居可能で、安価な住まいではあるのですが、なにせ環境が劣悪なことが多いそう。大部屋に20人とか、普通にあるらしい。
僕は今シェアハウスをしていますが、気心知れた人達との共同生活ならまだしも、見知らぬ人達、しかも元路上生活者が多く、中には人間的に問題のある人いる中での共同生活はなかなかのストレスでしょう。
ドヤに住んで生活保護を貰えたは良いものの、その後待っているのは嫌がらせや人間関係のトラブル。さらに一部のドヤは、ヤクザなどと繋がっており、貧困ビジネスの温床になっていることも多いのだとか。もらったお金が、食費や維持費なんかだとかで、どんどん吸い上げられてしまう。
ドヤに一定期間住んだ人は、“褒美”として行政が普通の賃貸を紹介してくれるのだそうで、晴れて生活保護でひとり暮らし、いわば最低限度の生活を送ることができるようになるわけですが、
そこまでドヤに住み続けられる人はあまり多くないのだそう。
結局路上のほうがずっと自由で楽で暮らしやすいということで、逃げ出してしまうんだそうです。
だから、路上生活者のほとんどは、一度はドヤに住んだ事があるらしいです。
今は、自分で“選択”して、路上で生活しているということです。
ちなみに、一度ドヤから逃げ出し生活保護受給を放棄したと見なされると“失踪廃止”の印を押され、再び生活保護を受給することが難しくなってしまうそうです。
ツアーでお話を聞いた「べてぶくろ」さんは、ホームレスの居場所づくりを行う団体ですが、このドヤの問題がホームレス問題の根幹だと考え、“ハウスファースト”の考えのもと、まずひとり暮らしの住まいを提供するところから始めるという試みを行っています。失踪廃止の印がついた方と一緒に役所に赴き、受給の交渉をするこということもやっているみたいです。
さて、なかなか問題が複雑になってきました。
様々な要因が絡み合って、がんじがらめです。
もう一度整理しましょう。
①路上生活者の約7割は、何らかの障害を抱えており自活が難しい状況にある。加えて小さい頃から十分な教育を受けられていないなど、そもそも生まれ持った環境が恵まれなかったという人も多い。
②住所不定無職では、基本的には基準を満たせず生活保護は支給されない。なぜなら生活保護は自治体の予算から出されるものであり、受給者が増えるほど財政は圧迫されていくから。できるだけ他の自治体に流そうとする。
③日雇いで稼いでお金を持っていたとしても、路上生活者が不動産と契約し住まいを獲得することは極めて難しい。
④ドヤという日雇い労働者のための寮は、空きがあれば誰でも住むことは可能。そこに住んでいれば生活保護も貰うことができる。
⑤しかしそのドヤの環境は劣悪で、すぐに逃げ出し路上に戻ってしまう人も多い。
⑥一度ドヤから逃げて生活保護を放棄したと見なされると「失踪廃止」の印が押され、再び生活保護を受給したくても難しい。
⑦晴れて路上生活に出戻りする。
というのが大きな流れとしてあります。
実際に路上生活者の方に話を聞いたり、支援を行う人に話を聞いてみましたが、問題が非常に複雑で、これを解決したらまた新たに問題が生じるといった、何本もの糸が複雑に絡み合っているような状態だと思いました。
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どうしたら良いんでしょうかね。
ツアーに参加した日は、本当にどうしたらいいのかわかりませんでした。こうして文章を書いている今も、どうしたらいいのか全くわかりません。
生活保護の受給基準を下げればいいのではないかとも思いますが、大阪西成地区を見ればわかるように、とても成功しているとは言えないでしょう。西成地区は保護支給の基準が低く、生活保護受給者が市の人口の1/4を占めています。ですが中には基準が甘いが故、働けるのに不正受給している人も多くいるといいます。
確かに、生活保護や炊き出しなどの民間の支援によってある程度満足な生活を得られるすれば、もう働くなくても良いやと思ってしまう人が出てくることは自然なことだと思います。
池袋でも炊き出しやおにぎりの支給など、なかなか手厚いホームレス支援が行われていますが、「だからホームレスはホームレスのままなんだよ。甘やかすな。」と考えることもできてしまいます。
どうやらただ単に救いの手を差し伸べるだけでは、問題は解決できなさそうです。
本当に自力では生活できない人がいる一方で、怠惰な人やずる賢い人など、路上生活者の中にも多様な人が存在しています。
そうした人を一括りにホームレスと捉えて包括的な対策を行っても、トコロテン式に別の問題が発生して、問題の解決にはなりません。
僕はこれにどう関われば良いのでしょうか。
わからない。
こんな現状があると知ってしまって、いまとっても気持ち悪いです。
これまでのように、社会は明るいとニコニコ笑っては生きていけないです。
「日本の幸福度あげたい」ってよく言ってたのですが、そんなふわふわしたこともう絶対言えない。
ここにきて、ベーシックインカムの可能性を改めて感じたりしています。
何らかの結論を述べることが難しいので、ブログの綴じ方がわからないですが、これからもっと勉強して、何らか自分なりの落とし所(解決策なのか、自分なりの解釈なのかわかりませんが)をみつけたらまた追記したいと思います。